寝苦しさで目が覚めた。


見慣れた天井。後を引く寝苦しさから逃れるよう、上体を起こしてみれば、私はパジャマでは無く服を着たまま眠っていた。少しずつ何があったのか、ゆっくりと思い出す。夢であって欲しいと思うものの、まだ痛みの残る目と鼻が、このどうしようもない現実を突き付ける。とりあえず目と鼻を何とかしないと。明日、泣きましたと言う顔で学校に行きたくない。布団から抜け出し、部屋を出る。階段を降りた所でリビングに居る母さんに、「お風呂沸いているわよ」と言われたので、顔を洗うついでにお風呂に入る事にした。







少し温めのシャワーが冷えた全身には心地良かった。


湯に浸かり、ぼんやりとする。思う事は今日の事ばかりだ。不機嫌な圭介に呼び出された事。言い合いになった事。


そして・・・。


我ながら、凄い事をしてしまったんだと思う。大事にとって置こうと思っていた訳では無いけれど、あんな形で初めてキスしてしまうなんて。唇に触れ、あの時を思い出す。


圭介は、熱かった。すぐに離れて正解だったと思う。そうでなければ、きっと私ごと溶かされてしまったのかもしれない。もう触れる事も無いけれど、あの熱を感じれただけ私は幸せなんだと思う。本当は分けて欲しかったけど。奪って感じた熱だけど。


ただ、もう圭介には避けられると思うと、寂しく思えた。勝手なものだと思う。最初、圭介を避けたのは私なのに。他所他所しくなった私に圭介が怒ったのも、当然なのだと今なら思う。こんなにも寂しいなんて。だけど、もう戻れない。私は圭介の手を放した。これで圭介が私を避けて、家庭教師の件も無かった事にすれば、私達を繋ぎ止めるものはもう何も無い。この状況をずっと願って居た筈なのに、なんてこんなにも悲しく寂しいものなのか。自業自得だと自嘲し、蛇口を捻る。


お湯はこんなに温かいのに、一向に胸の内に宿った冷たさは消えずに残った。







翌日。


もう電話は鳴らないと思って、お風呂に入っていたら、隣から電話が入った。母さんが「圭ちゃん、準備できたって言ってたわよ」と言った時には、耳を疑ったものだ。急いで髪を乾かして、隣の山口家に向かう。廊下でバッタリ会ったおばさんは意味深に笑うと、「今日もよろしくね」と言って台所に消えて行った。




緊張した面持ちで圭介の部屋に入ると、中に居た圭介が「よぅ」と軽く手を挙げた。「今日もよろしくな」とにかっと笑う圭介の神経は凄いと思う。昨日あんな事があったのに、平然としていられるなんて。圭介にとって昨日の事は大した事ではなかったのだろうか。そう考えれば考えるだけ悲しくなって来る。だからなるべく考えないようにする為、私は教科書を開いて教える事に徹底する事にした。







バクバクと煩い心臓を押さえて、隣に電話を掛ける。


あんな事があった昨日の今日なのに、呼び出すのはどうかなと言う迷いはあったけれど、こちらから距離を置いたら確実には遠くへ行ってしまうだろう。本人もその気なのだから、俺が引き止めるしかなかった。その為には迷いは全て捨てる事にした。どの道が正しいなんてわからない。道はきっと一杯あって正解も沢山あるけれど、俺にとっての正解は俺が幸せだと思える道以外無いと感じた。


きっとこの考えは傲慢なんだろう。の意思など1つも考慮していないのだから。




電話にはおばさん、の母さんが出た。


昨日の事を謝ると、「気にしないで」とおばさんは笑った。昨日のあの時間、おばさんとうちの母さんの間で何らかのやり取りがあったんだと思う。をベットに寝かしつけ、おばさん達と軽く言葉を交わした後、怒られる事を覚悟して家に入れば、母さんは「ご飯よ」と一言言って台所に行ってしまった。




電話を掛けて数十分後。「遅くなってごめん」と言うは風呂上りらしく、顔を赤くして部屋に入って来た。その表情は固くぎこちない。なるべく固くならないよう、にかっと笑って見せれば、逆効果だったらしく、少し悲しそうに目を伏せた。失敗したと心の中で嘆息するものの、ふと頭を過ぎったのは俺にとって都合の良い解釈。


って俺の事、まだ好きなんだよな?




その事に浮かれそうになるものの、振動を繰り返す携帯のお陰で我に返った。枕元に置きっ放しの携帯に手を伸ばす。送信者名の下のタイトルを見ただけで、憂鬱な気持ちになった。内容を見れば今以上に憂鬱な気持ちになるだろう。安易に予想が付いた俺は、中を見ずに画面を閉じた。「メール、良いの?」と聞くに「広告メールだから」と嘘を吐いた。








教科書とノートを開いて勉強を始める。


昨日の苛々は嘘のように消えていて、教わった事がいつもより頭の中に入って行くのだが、始めて45分後、「これが終わったら休憩にしようか」と提案するに頷くと、また携帯が振動し出した。今度は長い。画面を見ればメールでは無く電話だった。表示された名前は彼女の名前。勉強を教わっている最中なのだから、後で電話しようと思って放って置いたが、振動は止まない。1分を経過した頃、「先に休憩しようか」と気を使ったに「悪い、電話行って来る」と告げて、携帯を片手に廊下に出た。メールのタイトルから察するにあまり良い内容では無い事を察した俺は、普段は誰も居ない1階の客間に移動した。


電話を取れば、怒鳴り声。


「何で出ないのよ」と怒る彼女の声が、俺の中にほんの少しだけ残っていた、彼女に対する気持ちをほぼ完全に消し去ってしまった。








怒鳴り声から始まった彼女との電話は、終始不平不満で埋め尽くされていた。あっちも受験で余裕が無いらしい。それは俺も一緒で、お互いに励まして行く事が本当はベストなんだろうけれど、励ますのが当たり前と言う態度を取られた上に、彼氏失格だと詰られるとそんな意欲も失ってしまう。「はぁ」と思わず溜息を吐いてしまった。それがまた彼女の神経を逆撫でしたようで、強い語調で話が続いた。


ああ、なんで俺、この子と付き合ってるんだろう。俺と彼女を繋いでいた細い糸がぷつりと切れてしまった瞬間だった。




苛々を俺にぶつける彼女。携帯から少しだけ耳を離して聞き流していると、「ちゃんと聞いているの?」と聞かれ、適当に「うん」と答えるつもりだったけれど、答える前にまた喚く彼女に気が付けば別れの言葉を口にしていた。


「俺達、もう別れようぜ」


寝耳に水の話だったのだろう。「は?」と言った後に、聞き間違いだと思ったのか、もう1度聞き返して来た。俺は努めて冷静に言う。「別れよう」と。


「嫌よ。何で別れなきゃいけないの?」


そう始まった彼女の話は今度はかなり湿っぽかった。まさかこうなるとは思ってなかったのだろう。「ごめんなさい」「別れるなんて言わないで」と繰り返す彼女の声は、もう俺の心には響かなかった。




謝る彼女と別れを口にする俺。お互いに平行線を辿った会話は、彼女が「別れるのは嫌」と切った電話によって曖昧なままで終わった。待受画面に切り変わった携帯。彼女が好きなマスコットキャラクターの待受画像。それすら視界に入れると憂鬱な気分が増して、変更しようと画面を操作してマイピクチャーの一覧を見れば、彼女と取った写メばかりずらりと並んで居た。


これもいつか消す事になるだろう。


1つ1つ確認すれば、どの画像も俺も彼女も笑っていた。それなのに、どうしてこんな事になったのだろう。撮った時にはこんなにも幸せだったのに。けれどこうなった事を後悔していない自分に気付いた。








無性にの顔が見たかった。例え、俺と会う事であいつが悲しい表情を浮かべようと。息を吸って心に溜まった憂鬱感を肺に収め、それを一気に吐き出す。少しすっきりしたので、そのまま2階に上がりドアを開ければ、「おかえり」と言うに安堵する俺がいた。


「ただいま」