携帯を携えて圭介は部屋を出て行った。人間関係に関しては割りとオープンな圭介が部屋を出るという事は、電話の相手は十中八九彼女なのだろう。部屋を出て行く時に見えた憂いを帯びた横顔を思い出す。私ならあんな顔させないのに。もっと私なら―――。

何、考えているんだろう、私。諦めなきゃいけないのに。


頭を振り、考えを捨てる。教科書とスケジュール表を見比べ、現在の進歩具合を計る為に頭を動かすものの、出て行った圭介が気になってなかなかはかどらなかった。






ようやく集中し始めた頃、圭介が部屋に戻って来た。時計を見れば10分程度だったが、もっと長く感じた。「おかえり」と言えば、ほっとした表情を浮かべて「ただいま」と返して来る。その反応に少しだけ違和感を感じながらも、手元のプリントに集中する事にした。


ノックが2回。その後におばさんの声がした。手に持つお盆にはカップが2つとクッキーの乗った皿があった。「休憩に食べてね」と言って、おばさんはすぐに部屋を出て行った。圭介が取っ手を持ってカップの1つを差し出す。カップの底を持つと、その熱さに反射的に手が動いてしまった。パシャとカップの中身が零れる。手に掛かったコーヒーの熱さに顔を顰めるものの、カーペットに広がる茶色い染みを見て「ティッシュ、どこ?」と言えば、「馬鹿、こっちが先だろ!」と圭介に怒鳴られ、手を引かれて部屋を出た。


圭介に掴まれた右手のせいで、火傷した左手の痛みを忘れた。





ドタドタと足音を鳴らして台所に入った私達におばさんは目を丸くした。


「どうしたのよ、2人とも?」
がコーヒーを手に掛けて火傷した」
「大変!ここで冷やしなさい」


圭介に掴まれた右手が蛇口の下に突き出され、冷たい水が右手に注がれた。


「圭介、火傷したのはこっち」


空いていた左手を見せれば、今度はそちらを掴まれた。離された右手がポタポタと雫を落とす。掴まれた左手は圭介の両手ごと水に曝されていた。7分丈のブラウスの私は平気だけど、長袖の圭介は捲らなかったから袖が濡れていた。


「ねぇ、圭介、袖、濡れてるよ」
「ああ、そうだな」


そう言って圭介は黙り込んだ。手はまだ掴まれたままだ。


「ねぇ、圭介、私自分でやるよ」
「良いから。じっとしてろ」


そう言われると私は黙り込むしかなかった。ジンジンと火傷で痛む手は冷水に曝したお陰で、徐々に感覚が無くなって来た。指先を動かせば感覚が少し麻痺しているせいで、ぎこちなく動くだけだった。それを「動かすなっての」と圭介に掴まれ、赤くなった手の甲はまた水に曝される。


「ねぇ、圭介」


そろそろ離してよ。その言葉を言わない私はずるい。








熱さで思わず手を動かしたせいで、手渡した筈のカップは床に転がった。割れずには済んだけど、運悪く中身の半分はの手に掛かり、残りの半分はカーペットに染み込んで行った。最初は熱さで手を押さえただったが、すぐに「ティッシュ、どこ?」と室内を見回した。だからつい怒鳴ってしまった。


「馬鹿、こっちが先だろ!」


問答無用で手を引いて台所に急いだ。派手な足音を立てて現れた俺達に母さんは何事かとぎょっとするものの、理由を話せば洗物中で使っていたシンクの前を空けて家の奥に消えて行った。きっと薬を取りに行ったのだろう。掴んだの手を水で冷やす。火傷したのは本当は逆で、掴む時に火傷してない手を敢えて選んだ筈なのに、念頭からそれがもう消えていて、自分が如何に焦っているか自覚する事になった。







の手に巻かれた包帯が取れた頃、俺の携帯に1通のメールが届いた。あの日から連絡を取っていなかった彼女からだった。クリスマスを一緒に過ごさないかと言う誘いだ。まだこの関係を続けたいと願う彼女と終わらせたいと思う俺。意識差の激しい俺達が一緒にクリスマスを過ごした所で、楽しい時間を過ごせるだろうか。クリスマスは恋人達の日と決まっている訳ではないけれど、街中を歩けば楽しそうに手を繋ぎ腕を組んで歩く恋人達の姿が溢れ出す1日だ。さすがにそんな日には別れ話をする気にもなれず、けれど会ってしまえば口にしてしまいそうだった。だから、断りのメールを送った。自分で後で読み返しても素っ気無いと思うほど、短い言葉で。







毎年、クリスマスの時期になると商店街の中央広場に大きなツリーが姿を現す。待ち合わせ場所としてここを指定されたのだが、同じように待ち合わせをしている人達の姿が目立った。


「お待たせ」
「おっせーよ。・・・でも、まぁ、可愛いじゃん」
「ありがと」
「コートが」
「・・・・・」
「あと、お前も」
「・・・うん」


照れたように笑った恋人を連れて、俺の隣で待っていた見知らぬ男はイルミネーションの眩しい街の中に消えて行った。普段の俺ならバカップルだと思うのに、不思議とそう思わなかった。むしろ羨ましいと少しだけ感じるのは―――。


「ごめん、お待たせ」


ファー付きの白いコート。今まで見た事も無いくらい綺麗にお洒落をして、彼女はやって来た。気持ちが冷めた俺が見ても、綺麗だと思うし、可愛いとも思う。けれど、素直に口に出す事に躊躇いを感じて、「行こうか」と促す事しか口に出来なかった。


別れるから、クリスマスにデートして。


そう返って来たメールに俺は2日悩んだ末、OKのメールを出した。今年も山口家と家は合同でクリスマス会をやるらしい。去年のクリスマスは達一家も交えて家族と過ごした。一昨年も、その前も。酒が入るとあれこれと冷やかしてくる親達から逃げて、最後はと2人で部屋で話をしていたような気がする。今年は俺が抜けたので、子供は1人だ。きっと早々と抜けて来るに違いない。翌日に仕事があっても、日付が変わる頃まで飲んでいる親達だ。今年はクリスマスの翌日は休日だから、日付が変わっても飲んでいそうだ。そんな事を考えながら、俺は彼女が行きたいデートスポットへと歩き始めた。


最後だから。そう言って彼女は手を繋いで来た。先程まで手袋をしていた彼女の手は温かく、手袋無しで待っていた俺の手はとても冷たかった。まるで俺達の温度差のようだと思った。彼女はその温度差を溶かすように、俺の冷たい手を握り締めた。彼女を愛しいと思っていた頃の記憶がフラッシュバックする。けれど、気持ちはもう・・・・・・・・。








「最後に高台に行きたい」


そう言った彼女と共にこの高台までやって来た。ここは俺達が初めてデートした時に訪れた場所だ。高台から街中を見れば、イルミネーションの光が綺麗で、それがお目当てのカップルの姿がちらほらと見える。


「綺麗」
「そうだな」


そうお互いに呟いた後、しばらくの間、俺達は無言で街の光を眺めていた。高台のフェンスから手を離すと、彼女が俺の方を向く。


「ここ、覚えてる?」
「ああ。俺達が初めてデートした場所だろ」
「良かった。覚えてくれていて」


胸の上に手を置き、彼女はほっと息を吐いた。寒さで息が白い。


「今日はありがとう。一緒にクリスマス過ごせて良かった」
「そうだな」


気持ちはもう他に向いていて、彼女と過ごす時間に幾ばくの心苦しさはあったけれど、行く先々はどこも昔デートで良く行った場所で、彼女と一緒にいるとあの幸せだった時間がまた戻ったような錯覚に何度も陥った。もう気持ちは変わってしまったけれど、幸せだと思えたあの頃の記憶を別れる前に思い出せて良かった。今日、彼女と過ごせて良かった。心からそう思えた。だから自然と笑みが浮かんだのだけれども、少しずつ彼女の顔が悲しそうに歪んで行った。


「ねぇ、圭介くん。私と一緒で今日楽しかった?」
「ん?ああ」
「私と付き合ってる間、楽しかった?」
「勿論」
「そっか」


「それが聞けて良かった」と彼女は笑った。悲しみに歪んでいた顔のまま笑ったので、悲愴感が余計増して見えた。


「ありがとう。今まで。大好きだったよ。私」
「うん」
「でも、私じゃ『さん』の代わりにはなれなかったね」
「えっ?!」


今まで1度も彼女の口からの事は聞いた事が無かった。何故、この場での名前が出て来るのだろう。問い質してみたかったけれど、彼女は嗚咽を繰り返し、それどころでは無かった。


「大丈夫か?」


そう声を掛ければ、彼女は俺の胸に勢い良く抱き付いて来た。体格差があった為によろめく事はなかったが、気が付けば背中に手を回され、「ごめん、最後だから。これで最後だから。泣き止んだら離れるから」と懇願する彼女が少しでも落ち着くようにと頭を撫でた。じんわりと涙を浮かべて、か細い声で彼女は泣きながら言った。


「私は『さん』じゃないの」
「どうして私の名前を間違うの?」


今まで押さえていた彼女の苦しみ。それに触れて、俺はどうしようもない自己嫌悪に落ちて行くのだった。







もう遅いから送ると言う言葉を頑として受け入れなかった彼女と別れ、俺は1人家までの道を歩いていた。ホワイトクリスマスと呼ぶには過剰な演出と言えるほど、雪はシンシンと静かに降り積もって行く。帽子もマフラーも鞄に入っているけれど、取り出す気にはなれなかった。少し頭を冷やしたかった。


無意識に彼女の事を『』と呼んでいた、俺は最低な男だ。




家の前まで辿り着くと、玄関のドアを開けなくても十二分に楽しんでいる家族の声が聞えた。あの輪に入って行く気にはなれない。静かにドアを開けると、見慣れない靴が2足。お隣のおじさんとおばさんの物だろう。の靴だけ見当たらなかった。ドアを1度閉め、隣を見れば1階に灯りが点いていた。少しだけの顔を見たら、帰ろう。そう考える前に足は隣へと向かって動いていた。



アスファルトの上に白く積もった雪。そこに薄っすら残るのは隣の家に続く足跡。なぞる様に、その足跡を辿った。