圭介は「ごめん」ではなく、「ありがとう」と言った。それが嬉しかった。


あまり体は丈夫とは言えない方だ。それに加えて無茶をしたせいで、圭介が帰った後、お風呂に入った頃には既に手遅れだったらしく、倦怠感を感じる体を引き摺って布団に倒れ込めば、翌日には風邪をひいていた。毎年のように風邪をひいているので、そんな私に慣れている母さんは「今年は早かったわね」と暢気に呟いた。風邪の原因について答えられない私は、その暢気さがありがたかった。見舞いに圭介も来たけれど、顔色も良く、咳もしてなかったので正直ほっとした。私はもう受験が終わっているけれど、圭介はこれからの人だ。成績よりもワンランク高い学校を受験するのだ。時間を無駄には出来ない。




抱き締めて来た圭介を拒絶しなかったのは、私の意思だ。謝罪されると、クリスマスの日の事は無かった事にしたいのかと勘繰ってしまいそうで嫌だった。だから、ありがとうと言われると余計嬉しかった。そう言えば、見舞いに来た圭介に何度も「大丈夫か?」と尋ねられた。そんなに貧弱に見えるのだろうか、私は。少しは丈夫になった方がいいかもしれない。







平熱に戻った時には、年の暮れに差し掛かっていた。


正月を寝て過ごさずに済んだものの、風邪をぶり返されては堪らないと言う両親の意向により大掃除が免除された私は、邪魔にならないように部屋で静かに本を読んでいた。読んでる本は推理小説。クリスマスの時にクライマックス間際で止めた本だ。一連の見立て殺人。犯人の自殺。そして真犯人の影。急展開を迎えた物語に心を躍らせながらページを捲っていると、コンコンとドアがノックされた。返事をすると、「俺」と一言返って来る。圭介だ。「どうぞ」と言うと、圭介は両手に勉強道具を抱えて部屋に入って来た。


「勉強するなら大掃除免除なんだよ。そういう訳だから宿題片付けようと思って」
「そう言えばあったね」


危機感無く遊んで貰っては困る。終業式の日、そう言った担任は大量のプリントを宿題として配った。どれもこれも基礎と応用を押さえた受験対策用の物で、確かにこれを真面目にやれば学力は向上するだろう。鞄に入れたままのプリントを取り出せば、分厚くずっしりと重みを感じた。これは本気でやらなければ3学期の始業式までに間に合わないかもしれない。本にしおりを挟み、筆記用具を取り出すと、勉強机では無くカーペットの上に置いたローテーブルの前に座った。勉強机は圭介に譲るつもりだったのに・・・。


「圭介もこっちが良いの?」
「ん?ああ、の傍に居た方がわからない所、聞きやすいし」
「そうだね」


「わからない所があったら、遠慮無く聞いてね」と言うと、「おぅ」と言うやる気の感じられる声がすぐ傍で聞えた。




小さなローテーブルに2人、向き合うようにして座る。昔は当たり前のように傍にいた。ずっと離れていたから、わかる。こんなに近くに居られる事が嬉しい事を。




私はもう何か切っ掛けが無ければ、自分から圭介の傍を離れる事は出来ない気がした。








は屈託の無い笑顔を見せるようになった。


勉強するなら大掃除免除。母さんからそんなありがたい言葉を貰った俺は、速攻で2階の自室に戻ると勉強道具を抱えれるだけ抱えて、隣の家に突撃する事にした。病み上がりのため、も大掃除免除された事は既に母さんから入手済みだ。「半年前には考えられない姿よね」と呆れた母さんの呟きが、玄関で靴を履く俺の背中に降り掛かる。


「俺もそう思う」


半年前の俺ならば、掃除か勉強かと言われたら、間違いなく掃除を取っただろう。その事を充分自覚している俺に「頑張りなさいよ」と母さんは言うと、俺の腕の中の教科書やプリントを無造作に積み上げたタワーの1番てっぺんに、ポンと白い箱を置いた。見覚えのあり過ぎるパッケージ。


「え?これ、どこから来たの?」
「北見のおじさんが送ってくれたのよ。1箱あげるからちゃんと一緒に食べなさい」
「ありがとう、母さん!」


こうして大好物を持って隣の家に突撃したものの、の部屋の一角に置いたタワーの上にある白い箱が気になって仕方なかった。たかがお菓子、されどお菓子。先日のサッカーマガジンの取材で、「好物は?」と聞かれて即答したくらい、このお菓子が好きだった。


「コーヒーと紅茶、どっちが良い?」


音も立てずにすっと立ち上がったに、「まだ、休憩には早くないか?」と返す。するとは可笑しそうにクスクスと笑い出し、「ずっとそこの箱見てるでしょ」と言った。


「あ、ばれた?」
「問題1問解くごとに見てたよ」


チラリチラリと見ていたけれど、そこまで意識していなかった。「それでどっち?」と尋ねて来たに、「紅茶でお願いします」と頼めば、「了解」と言って部屋のドアを開けた。


「1枚くらいは頂戴ね」
「俺、そこまでせこくないよ」


その言葉にはまた可笑しそうに笑って、階段を下りて行った。




ずっと悲しませてばかりいたから、最近増えたの笑顔に心が癒される。笑う度、俺は救われているんだ。







覚悟は決めた。後は実行に移すのみだ。


「初詣?」
「そ、一緒に行かない?」


担任・・・と言うより、学校側から出された宿題の量は半端無く多かった。大掃除の間、真面目にやったけれど、それだけではとてもじゃないが終わらない。次の日も、またその次の日も、の家でプリントと格闘する事になり、ようやく半分片付いた頃には大晦日を迎えていた。




が家庭教師に付いてから格段に学力は向上したので、基礎問題に関してはスラスラ解けるようになったけど、応用問題に関して言えばが3問解く間に俺は1問解くペースでしか進めない。全て終わらせたのプリントの山を見て「お前、解くの早い」と言えば、「早さよりも大事なのは正確さだよ。正解しないと意味が無いんだから。特にケアレスミスには気をつけてね」と家庭教師の顔で言い返された。ごもっともである。




BGM代わりにしていた紅白も気付けば終わりに差し掛かっていた。もうじき、年が明ける。喉の渇きを感じて台所に行けば、親達はクリスマス同様、酒宴に入っていた。毎年恒例の初詣はいつ行くのだろう。気になって「初詣行くの?」と聞けば、「圭ちゃん達は今から行って来るの?」とおばさんに逆に尋ねられた。答える前に父さんに「行って来い、行って来い」と言われ、おじさんが「何なら貸すぞ」と言う。おばさんが「気をつけてね」と言い、比較的酔って無い母さんが「危ないから、ちゃんしっかり守ってあげなさいよ」と言った。どうやら親の中では俺達は今から初詣に行くものだと思っているらしい。「どうするかな」と呟けば、「合格祈願行って来なさい」と母さんから命令が下った。


「初詣?」
「そ、一緒に行かない?」
「良いけど、母さん達は?」
「起きてから行くって」
「でも・・・良いの?一緒に行くの、私で?」


「その・・・」と言い難そうに言うが誰を気にしているか、すぐに俺はピンと来た。ポンとの頭に手を置き、気にするなと言う意味を込めてワシャワシャと髪を掻くと、「彼女とは別れた」と告げた。驚いたように目を見開いた後、色んな感情が入り混じった、複雑な表情に変えて俺を見つめる。その目を見ただけで言いたい事は何となくわかった。


と一緒に行きたいんだ。・・・駄目?」
「っ・・・駄目・・・じゃない・・・」


これからどうしたら良いのかはまだ決めかねているのだろう。複雑そうな表情を浮かべるけれど、その表情が一瞬だけ払われて笑顔になったのを俺は見逃さなかった。




神様、こんな俺ですが、とこのまま一緒に居れるようにどうかよろしくお願いします。受験に関しては自力で何とかしますから。




合格通知が届いたのは、それから1ヶ月半後の事だった。