背中に感じた痛みに思わず顔を顰めた。






壁に並ぶスティール製の灰色の書類棚。印字された年代毎に積み上げられたタンボール箱。パソコン、そしてインターネットの普及で情報はデータ化され、今では単なる紙媒体の保管庫となってしまった資料室は、掃除の手が入った形跡はあったが埃っぽかった。狭い部屋を有効的に使おうと言う意図の下、棚がやたら多いこの部屋は右を見ても左を見ても棚ばかりだ。唯一、背後に剥き出しになったままの白いコンクリートがあるのだが、背中合わせのこの状態ではひんやりとした冷たさをブラウス越しに感じる事しか出来なかった。


「痛い」
「へー、ふーん、そう」


左右は棚、後ろは壁、そして前には見慣れた顔の男が1人。冷ややかな眼差しで私を見下ろしていた。私の抗議に声に、感情の篭らない、心底どうでも良さそうな口調で彼は呟く。彼の外面しか知らない人間が見たら、きっと目を疑うだろう。この猫かぶりが、と内心で毒を吐く。


「俺と言う者がありながら、浮気するなんて・・・良い度胸だよね」


普段の彼の声からは想像出来ない程、低い声。俺と言う普段余り使わない一人称に、ぞくりと背筋に悪寒が走った。





資料室の奥の奥、袋小路に追い詰められた私。何でこうなってしまったのだろうかと、必死で頭を働かせるが、最近寝不足続きの頭は上手い事働いてくれなかった。


「現実逃避、しないでくれる?」


こんな異常事態に置かれているのにも関わらず、私の意識は冴え渡る所か徐々に霞む一方だった。目の前に見える冷ややかなれど端正な顔が白いフォーカスが掛かったように見える。頬に添えられた両手の熱が心地良く、ゆっくりと私の意識はまどろんで行く。


「いい加減、逃避は止めて現実見てくれない?」
「だって眠い」


噛み殺せず、あふ、と出た溜息。我ながら色気が無い姿だと思うけれど、仮に私に色気があったとしても目の前の男には敵わないと思う。何せ、彼は意識的にフェロモンを放出するタイプの人間だ。無意識に放出しているうちの上司よりはまだマシだが。


「浮気してないのに、浮気してるって言われても困る」
「へぇ・・・自覚なし?」


ぴくり、と米神を動かすと、童話の猫のように彼は笑った。ニターリと言う擬音の似合う不敵で粘着質な笑み。


「前々から思ってたんだよね」
「何を?」
「オフィスで女の子襲ってみたいなーって」
「・・・犯罪者」
「合意なら、問題ないんだよ」

知ってる?強姦は犯罪だけど、和姦は犯罪に問われないんだよ。そう言って彼は素早く私を壁に押し倒すと、ブラウスのボタンを外しに掛かった。


「ちょっと、何するの」


あっと言う間に上3つ外されて、4つ目を外す彼の手を止めるものの、私の抵抗など意に介さず、露になった水色のキャミソールの中に手を入れる。


「あ、ちょっと、やだ。こんな所で」
「へー。三上にはさせておいて、俺は駄目なの?」


もしかして、向こうが彼氏で、俺が浮気相手?私の顔を覗き込んでそう尋ねる彼の目はどんよりと濁った色をしていた。


「何、馬鹿な事言ってるのよ。大体にしていつ三上さんと浮気したのよ」
「昨日」
「はぁ?何、言ってるのよ。昨日は泊り込みで残業よ」


残業が浮気扱いなら、私、仕事にならないわよ。そう言い返すと、冷ややかで濁った色の目をしていた彼は、さも名案を閃いたと言った表情に変わると、目を細めて楽しげに笑って見せた。変わらぬ目の色に嫌な予感しか感じない。


「そっかー。そうだよ。仕事があるから、あんな目に遭うんだよね。それなら辞めて貰った方が良いよね」


そう言って彼はその細く長い指で私の肌をなぞった。ぞくり、としたのは触れられただけではない。彼を取り巻く剣呑な空気に飲み込まれそうになったのに気付いたからだ。


「おめでた婚、・・・あ、今はさずかり婚って言うんだっけ?できちゃった婚よりずっと良いよね、こっちの方が。如何にも思わぬ所で望まぬ子が出来てしまったから責任取って結婚しましたって感じがするから、俺、あんまり好きじゃなかったんだよね、この呼び方。良いよね、さずかり婚。欲しくて子供授かっちゃいました、順番がちょっとだけ違うけれど私達結婚して幸せになります。良いね、サイコー」
「・・・秀二くん、とりあえず戻って来て」


前々からぶっ飛んだ思考回路だとは思っていたが、今日の彼は一段とぶっ飛んでいる。おそらく私が浮気したという誤解によってこんな状態になってしまったのだろう。戻って来て、とポンポンと頭を軽く撫でるものの、こんな緩慢な動作1つで戻るならば苦労しない。


「第一子は女の子が良いんだよね。手を抜いた時に出来た子供が女の子なんて話も聞くけれど、相手じゃ手の抜きようがないから困るけど・・・ま、男の子も良いだろうし。俺にさえ似なきゃね。妊娠って自覚症状出るの、3ヶ月目くらいだったかな?まぁ、流石にあの三上も妊婦相手にハードワーク言いつけないだろうし。その前に結婚妊娠退職して貰うから問題無い、か。・・・そういう訳で」


今回限り、浮気には目を瞑ってあげるから、観念して人生の墓場に俺と一緒に足を突っ込もうね。


耳元で艶めいた声で囁かれた私は、顔を赤く染めたまま、


「そんなプロポーズの言葉を受けると思ったら大間違いだ、コノヤロウ!」


と、断固拒否した。




「そもそも、何で三上さんと浮気したと思ったのよ」
「アパート行ったら、が居なくて、会社に行ったら・・・」
「行ったら?」
が三上の腕の中でソファーに寝てた」
「・・・・・・あー」
「浮気・・・だよね」
「いや、多分、また三上さんが寝ぼけたんだと思う」
「寝ぼけた?」
「この間、新しく入った高瀬って子が、この間ソファーで寝てたら似たような目に遭って、悲鳴上げてた」
「・・・ミカちゃん、寝相と寝ぼけの酷さは相変わらずだね」
「そうみたいね。そういう訳で浮気なんてしてないから、ここでする気も無いし、子供も作らないし、仕事も辞めないわよ」
「浮気が誤解なのはわかったし、子供もまだ当分要らないし、仕事も辞めなくても良いけどさ・・・」
「しません!大体にして、何でこんな所でしなきゃいけないの!」
「言ったじゃん。1度、オフィスで女の子襲ってみたいって」
「私でやるな、私で!」
「俺、浮気は出来ない男だしぃ〜?」
「嘘吐け、私が入社する前のあの爛れたオンナ関係は何だったんだ?」
「イイオトモダチ?」
「・・・・・・前々から思ってたけど、最悪だわ」
「ふーん?じゃあ、その最悪な男と何で付き合ってるワケ?」
「さぁ、何ででしょうね」




普段は余裕綽々の癖に、私が絡めばその仮面を脱ぎ捨てる。
そんな貴方が好きなんて言えば、貴方はどんな顔をするかしら・・・・ね。
絶対に言わないけれど。





絶対不可侵領域