同年代では多い方なのだろう。下手をしたらその辺の大人よりも多いかもしれない。横山平馬は受け取ったパスポートを見てそう思った。パスポートの後ろのページには、判子の数々。その後ろにNARITA出国と判が押された。海外遠征も今年に入って数回目。今回は近場で時差が1時間程度だったので、特に気構える事無く搭乗した。




遠征のスケジュールを殆ど消化し、残す所、数時間の自由行動のみとなった平馬達は、迷わず街に繰り出した。とは言え、まだ中学生である平馬達には常に誰か保護者代わりの大人が付いてくるので、行ける場所と言えば、治安の良い繁華街のメインストリートか、免税店くらいなものだが、彼らにしてみればそれで充分だった。新しくナショナルチームのスタッフに入った女コーチが免税店に行くと藤代が聞き、それに俺も俺もと参加者が加わり、ホテルからのシャトルバスに乗り込んだ一行は、街の中心部に位置する大きな免税店に向かったのだった。


「ここに午後1時集合。時間厳守よ」
「はい!」
「ちなみに今は10時だけど、みんな合ってる?」


元気の良い声が免税店の入り口に響く。到着と同時に全員時計を現地時間に合わせた彼らは、念の為に時計を確認する。10時とどの時計も記されていて、「俺、大丈夫」「俺も大丈夫」と声が上がる。渋沢が全員分の声を確認したのだろう。そういうポジションが否応無く確立してしまった彼は、「全員OKです」と答え、それを見てやり手とされる女コーチ、西園寺玲も頷いて見せた。「それじゃあ、午後1時にここで会いましょう」と言ったコーチは、練習中で見せるジャージ姿ではなく、白いブラウスに藍色のパンツと洗練された女性の装いで、免税店の地下に降りて行った。入り口の店内案内板を見た彼らは、B1と書かれた地図を見て納得した。化粧品とブランド品のコーナーだった。




それぞれ興味のある店に移動して行く。上のエスカレーターに乗って行く彼らを他所に、1人、コーチの後を追うように下のエスカレーターに向かう平馬に圭介は声を掛けた。


「え?平馬、地下行くの?」


不思議そうに圭介が聞く。ナショナルチームのメンバーとして早々と名を連ねて来た2人は、同じ静岡出身と言う事もあって仲が良い。遠征中でも良く行動をする2人だったが、圭介は平馬が化粧品やブランド品に興味を持った所など見た事が無かった。考えてみれば、土産も空港で済ませる事が多く、免税店に来たのも初めてじゃないかと圭介は思い出す。そんな圭介の思いを他所にコクリと平馬は頷いて見せた。


「欲しい物あるから」


そう言って平馬はエスカレーターに乗り、地下へ消えて行った。心底不思議そうな顔で圭介がそれを見送る。


「山口、何、ぼーっとしてるの?」


横から声を掛けられ、圭介は我に返った。見慣れた顔に圭介は安堵する。


「あ、霧島。いや、平馬がさー」
「横山がどうしたの?」


圭介が理由を口にすれば、霧島はあっさりと答えを導き出した。


「彼女へのお土産じゃない?」


納得したように、圭介がポンと手を叩く。若者らしくない動作だが、おじいちゃん子の圭介がやると不思議と違和感なく見える。


「なるほど、彼女への土産か」
「山口は買わないの?」
「・・・・買わない」


少しだけ不機嫌さを醸し出した圭介に、霧島は苦笑する。相変わらず素直じゃないと思いながら。


「じゃあ、俺が買おうかな」


「日頃お世話になっているし」と言って地下のエスカレーターに向かって歩けば、霧島はガシっと後ろから右肩を掴まれた。振り向けば、不機嫌さを増した圭介が後ろに立っていた。


「何、山口?」
「お前が何であいつに買うんだよ?」


呆れたような不機嫌さで少し荒い口調で圭介が話す。圭介が言う『あいつ』が彼の幼馴染でお隣さん、クラスメートで彼の好きな女の子を指していると即座に理解した霧島は、圭介の不機嫌さをまったく気にした素振りも見せず、にこりと笑うと「日頃世話になってるからね」と重ねて口にした。自分の思うように行かない圭介は、ガシガシと乱雑に髪をかき上げる。「止めろ」と言いたいけれど、言う権利など無い事を理解しているのか、複雑そうに顔を顰めて、少し苛め過ぎたかと霧島は口の端だけで笑った。


「何を勘違いしてるかわからないけど、俺は自分の彼女に土産買うんだけど?」


その言葉にしてやられたと圭介は顔を歪ませる。


「お前、わかってやってるだろ?」
「今更だろ。ほら、さっさと行く。たまには奮発しなよ、山口」
「あ、おい」


素早く圭介の左手首を掴むと、そのまま地下のエスカレーターに引き摺る霧島。「おい」とか「あのなー」と小言を漏らすけど、3年間の付き合いが単なるポーズだと理解していた霧島は、掴んだ左手首を緩めないまま地下に降りて行った。




地下のフロアを3周した所で、平馬は立ち止まった。1ヶ月前に彼女のと見たポスター。そこにあった鮮やかな色合いの口紅を探していたのだけれど、一向に見つからなかった。商品名か会社名のどちらかでも覚えてくるべきだったと平馬は嘆息する。3周した間に、あの口紅では無かった物のそれなりに良い品はいくつか目星を付けていた。もし見つからなかったらそれにしようかと思いながらも、あのポスターを見つめるの顔が忘れられず、平馬は再びフロアを歩き出した。




ガヤガヤと言い合いにしては静かだけど、話し声にしては大きな声が聞こえた。異国の地で日本語を聞くのは珍しくも無い。しかも、ここは比較的日本と近い場所であるし、日本人は免税店が好きなのかこの店でも良く日本語が行き交っている。聞こえた所であまり気にならないのだが、平馬はその声を無視出来なかった。化粧品とブランド品の並ぶフロアで、男同士の声、しかも聞き覚えがある声が2つともなれば、無視する方が無理だとも言えた。


「これ、俺のオススメ」


じゃーん、と効果音を口にしたのは、圭介と同じ学校の友人。今年からナショナルチーム入りしたDFの霧島だった。沢山並んだ口紅の中から1つ手に取り、圭介に見せる。男同士で何やってるんだと思いながら、他人の振りをして通り過ぎようと思ったのだが、霧島の手の口紅のメビウスの輪が一部欠けたようなロゴに見覚えがあり、平馬は思わず足を止めてしまった。


「あれ、横山どうしたの?」
「霧島が面白いことやってるから見に来たんだよ」


しれっとそう言う平馬に、霧島は苦笑いを見せる。見透かした言動が多い霧島は時々苦手だと思う相手だった。けれど、不思議と話していて楽しいとも思える相手だった。だから、こちらから話し掛ける事も多いし、嫌いだとは思っていなかった。霧島が話上手で、気を使うのが上手く、人を惹き付ける何かを持ち合わせているのかもしれない。そう平馬は思っていた。


「ふーん。・・・ま、折角だから横山も見て行ったら?」


見透かした目で声で霧島は言う。地下のこのフロアに居る理由を見抜かれた気がした平馬は、軽く眉を顰める。「彼女の土産の参考になるよ」と言わない辺り、霧島は気を使うのは上手いけれど、こうも的確に見抜かれると面白くなかった。


「このP−12、あ、Pと言うのはピンクのPね。これ、ここのブランドの新色なんだ。日本だと後数ヵ月後に発売の予定。色合いはこの通り、日本で言う濃い桜色。海外メーカーの口紅って香料がきつい物も多いけど、これはほんのりさくらんぼの匂いがするだけ。日本で大ヒット間違いなしの一品だよ。値段も日本で買うより安いからオススメです」


まるでプロの販売員のように、淀みなくスラスラと言う霧島。凄いと思う反面、やたらと商品に詳しい霧島に、呆れそうにもなった。隣で包み隠さずに呆れた表情の圭介が同じ疑問を抱いたのだろう。「何でお前そんなに詳しいんだよ」と呆れた声で言った。


「ああ、俺の彼女の両親、プロのメイクアップアーティストだから」


「だから彼女も詳しいんだよ」と言う霧島の言葉に納得し、P−12と小さく書かれた列の先頭に並ぶサンプルを手に取った。キャップを外して中を見れば、確かにあのポスターと同じ色をしていた。微かに香るさくらんぼの匂い。きっとに似合うだろう。サンプルを元の位置に戻すと、P−12と小さく印字された箱を取る。箱の後ろを見れば、この国の単位で値段表記されていた。日本円に換算して約2800円。平馬は箱を戻して少し悩んだ。


「買うかどうか悩んでるの、横山?」


既に会計を済ませた霧島は1個購入したのだろう。4個並んで居た箱のうち、1個分空きが出来ていていた。


「いや、1個買うか2個買うか悩んでる所。霧島は買ったの?」
「うん。似合うって・・・いや、彼女に似合う色合いだったからね」


言い間違いを笑顔1つで誤魔化して、霧島はそう言った。特に気にならなかったので、平馬は再びどうするか考え始めると、視界の先で口紅の箱を持つ手が動いた。素早く箱を手にした圭介は、そそくさと会計の方に行く。霧島がそれを見て溜息を吐くと、圭介を呼び止めた。珍しい。性格上、霧島なら見て見ぬ振りをするのに。




その理由にすぐ平馬は気付く事になる。


「山口、それ、P−12じゃなくてP−09だよ」


真っ赤になった圭介の手から霧島はP−09の箱を奪うと、P−12と書かれた箱を渡した。箱を戻すと、「じゃあ、俺、適当にここのフロア見てるから、移動する時は言ってよ」と言い、颯爽と歩いて行った。多分、圭介が間違えなかったらそのまま見なかった振りしたんだろうな、とその後姿を見て平馬は思った。




会計が終わった圭介はそそくさとどこかに行ってしまった。何であそこまで恥ずかしがるかわからない。彼女や好きな相手ならともかく、何で自分達にまで恥ずかしがる必要があるのだろう。まぁ、どうでも良いんだけどと、いつものように平馬はこれ以上考えるのを面倒だと思い放棄した。会計が終わり、辺りを見渡すが霧島も圭介も見えなかった。いつもの平馬なら1人で適当に時間を潰す所だが、声を掛けろと言われた以上、無視する訳にも行かず、2人の姿を探し始めた。向こうも移動してるのだろうか。気が付けばフロアを1周し、元の場所に来ていた。




ガヤガヤとまた声がする。平馬が無視できなかったのは、先程と同じように男の声だったからだ。しかも、聞き覚えがある声。ロッサの3人組だった。「姉ちゃんに怒られる」と半泣きの真田と、それを宥める郭。郭に任せたのだろう、若菜は傍観していた。ちょっとした真田と郭のやり取りでわかったのは、真田が姉に口紅を頼まれた事。頼まれた口紅がP−12と言う事。買って来ないと怒られると言う事。半泣きってどんだけ怖い姉なんだよ、と平馬は内心思う。それほど深くも無いが、浅くも無い間柄の相手。紙袋の中から袋を取り出し、考えた末、1個袋から取り出した。


「俺、余分に買ったから、譲ってやるよ」


口紅の箱を真田の前に出してそう言うと、本当に切羽詰まって居たのだろう。うるうると目を潤ませた真田は、ぱぁぁぁと顔を輝かせ、「マジで?いくらだった?」と聞いて来た。こいつ、チワワっぽい。平馬がそんな事を考えている事も知らずに、真田は提示された金額を財布から取り出すと、平馬の手に握らせた。受け取った箱を握り締める真田。「良かったね」と真田に言う郭は、平馬を少しだけ不思議そうに見ていた。余分に何で買ってあるのだろう、と顔に書いてあるのが平馬にも見て取れた。


「平馬ー」


後ろから声を掛けられ振り返ると、圭介と霧島がこちらに向かって来た。どうやら無事に合流できたらしい。


「これから上の階に行くけど、お前、どうする?」
「んー。俺も行くかな」
「じゃあ、行こうか?」


やって来た2人と移動しようとすると、真田が話し掛けて来た。


「ありがとうな、横山」


「どういたしまして」と返して、平馬は歩き出す。霧島は何となくわかったのだろう。にこにこと笑うだけで、一方、まったく理解出来なかった圭介は「なんかあったのか?」と尋ねて来る。そんな2人の顔を交互に見た平馬はただ一言、「別に」と答えて薄く笑った。







家に着いた平馬は母親に土産を手渡すと、「の家に行って来る」と言って家を出て行った。「本当、平馬はちゃんが大好きね」と微笑む平馬の母親の手には、綺麗な刺繍の入ったハンカチがあった。50m程歩いた先に建つの家のチャイムが鳴る。




「平馬」
「ん」


部屋に入って来た平馬を見つけ、宿題の採点をしていたは、赤えんぴつを置いた。教科書やノートの広がる机に、平馬は白い袋を置いて見せる。


「これ、土産」
「あ、ありがと」


嬉しそうに顔を綻ばせ、が受け取る。中を見たらどんな顔をするんだろう。そう考えただけで、平馬は楽しみで仕方なかった。


「平馬、これ・・・」
「欲しがってただろ?」


袋から小さな箱を取り出したは、中身に気付いたのだろう。驚いたように目を丸くして、平馬を見た。そして次の瞬間、ボロボロと泣き始めた。


「あ、おい」


「泣くなよ」と抱き締めて言えば、「だって嬉しかった」と涙声では言った。感極まったの頭を撫でると、は落ち着くまで平馬の胸にぴったりとくっ付いていた。平馬、平馬、ありがとう、ありがとう。何度も同じ言葉をは繰り返す。買って来て良かったと平馬はつくづく思いながら、涙を流す恋人を抱き締めた。





しばらくして落ち着いたは、突然、思い出したかのように平馬の腕の中でもがき始めた。


「あわわわっ、ごめん、平馬。抱き付いたりして!」


逃げ出そうと腕から抜けるものの、平馬の腕に捕らえられる。


「良いよ。俺、気にしてない」
「私は気にするの!」


抜け出そうと抗ってみるものの、女の力が男の、しかもスポーツで鍛えた男の力に敵う筈が無く、「むぅ」と少し悔しそうなを見て、楽しそうに平馬は笑った。


「離してよ」
「良いけど、その口紅付けた所、見せてよ」


「折角買ったんだから」と言う平馬に、は二つ返事で答えた。手鏡で貰った口紅を塗って見る。綺麗な桜色が、の唇に色付いた。綺麗なその色には見惚れ、どうかなと振り返った瞬間、唇に柔らかい感触を覚えた。驚きの余り目を見開いたは、浅く深く何度も繰り返される口付けに、恥ずかしさの余り目を閉じた。


「やっぱり2個にすれば良かったかな」


目を閉じたの耳にそんな言葉が聞こえた。何が2個なのかわからないは、気にする暇すら与えられずに平馬にキスされ続けたのだった。




桜色