使い慣れた白い携帯を操作し、メールを送ると、私はボストンバックに数日分の着替えと化粧品を入れ、ハンドバックに携帯と財布、それに家の鍵を入れて、パンプスでは無くスニーカーを履いて私は玄関のドアを開けた。
外に出て数分も経たずに近所の顔馴染みの奥さんとうっかり会ってしまい、彼女はしげしげと私の姿を見た後、「どちらかご旅行にでも?」と笑顔で尋ねて来た。近所でも評判の噂好きとされる奥さんだ。しかも話に尾ひれどころか背びれまで付けるのが得意だ。先日、お母さんが倒れて実家に帰った近所の佐藤さんの事を「実家に帰ったらしいわよ」と周囲にあたかも夫婦生活に問題があるように匂わせて言うのだから性質が悪い。ここで私が佐藤さんと同じ事を言ったら、きっと同じ憂き目に遭うのだろう。私の夫はプロのサッカー選手だから話題性が充分あるせいか、私を見つめる山田さんの全身からは好奇心が溢れ出していた。「大丈夫よ」「私、口堅いから」「何があってもさんの味方よ」と説得力の無い言葉を早口で喋る山田さん。頭の中には、きっと一大ドラマが渦巻いているに違いない。プロのサッカー選手と言う華やかな職業の夫が結婚早々に浮気。それを知った新妻である私が愛想を尽かして実家に帰る。そんな昼のドラマに放送されそうな内容がご近所に伝わると大変だ。この山田さんに見つかった時点で、ある程度の事は覚悟しなきゃいけないけれど、この辺に住む人はみんな山田さんの噂話の種に1度はされているから、話半分で聞いてくれるだろうけれど。
友人の結婚式と言う無難な言い訳を口にした私に、山田さんは途端に顔に落胆の色を浮かべた。それでもすぐに復活する辺り、ただの言い訳だと思ったのだろうか。この辺のご祝儀の相場を尋ねると、また落胆し「大体3万円くらいね」と答えて肩を落としたまま公園の方へと行ってしまった。わかりやすい山田さんの後姿を見送ると、私も駅に向かって歩き始めた。
平日の10時、駅の中は閑散としていた。誰も居ない乗車券販売機の前。財布から取り出した千円を機械に入れると、一斉に赤い料金ランプが付いた。その中で1番高いボタンを押す。じゃらじゃらと音を立てて落ちた釣銭を受け取り、970円と印字されたオレンジの小さな乗車券を携えて私は改札を潜った。
ガッタンゴットン。何度もそんな音を繰り返す電車。駅が見える度に停まる各駅停車のこの電車内は駅よりも閑散としているのだろう。私の乗った車輌には私と行商の帰りらしき大荷物のお婆さんの2人だけの貸切だった。そのお婆さんも数駅先の駅で降りた。降りる際、軽く会釈をされたので私も会釈をする。人生の様々な出来事を記憶したような深い皺だらけの顔。その顔に笑顔を浮かべた彼女は、大荷物にも関わらず急いだ足取りで1人のお爺さんの所に歩いて行った。
「あら、お爺ちゃん、来たの?」
きっとその老人は彼女の夫なのだろう。老人は彼女の持っていた大荷物の中から1番大きなクーラーボックスを取ると、スタスタと駅の外に歩いて行くのが見えた。電車が動き出したので、彼女達の後姿が徐々に小さくなって行ったけれど、彼女は笑顔を浮かべているんだと顔を見なくてもわかった気がした。
行き先なんて考えてなかった。友人の結婚式と言うのも嘘だ。満たされている筈なのに、溜息の数が増えた。気が滅入って何も手が付かない時間が増えた。きっと些細な事が少しずつ時間を掛けて積み重なって、今の私の中の言い表すのが難しい気持ちが出来上がったんだと思う。特に何かあった訳じゃないけれど、今朝になって突然息が詰まるような感じがした。気のせいだろうか、体調が悪いせいだろうかと思っていたけれど、限界は思った以上に早く来た。数時間後、私は家の中をいつも以上に綺麗にして、数日分の着替えと必要最低限の物だけ持って家を出た。飛び出すように家を出ると、息を吸ってみた。少しだけあの息苦しさが取れた気がした。
ここではない別の場所に行ってみたくなった。交通機関は一杯あるけれど、何となく電車に乗ってみたい気分だったので、電車に乗った。千円で買える分だけ切符を買った。駅のホームには快速電車が停車していたけれど、快速と言う気分ではなかった。電光掲示板で20分後に各駅電車が来る事を知り、わざわざ待った。先に快速が2本来ていたお陰で貸切状態だ。電車の音。少し擦れた次の停車駅を知らせるアナウンス。ガッタンゴットンと煩い筈なのに、不思議と静かに感じられた。騒音の中の静寂、そんな言葉が思い浮ぶ。
行き先を考えていない私は、この電車がどこに向かっているか知らない。まだ色付くには早い青く茂った草木の続く光景を延々と眺めた後、街並みが続いた。しばらくしてコンクリートの無機質な群れを見た後、ぱっとそこだけくり抜いた様な三日月型の地形が現れた。コンクリートの灰色が反射しているせいか、海は少し鈍く光っている。
間近で見たくなって私は次の駅で降りた。乗車した私の街の駅に比べると、本当に小さな駅だった。日焼けした40代くらいの駅員さんが切符を受け取る。印字された金額は受け取るには大き過ぎたのか、人の良い駅員さんは切符に何か判子を押すと、次乗る時も使えるからと言った。私は彼にお辞儀をすると、ボストンバックをコインロッカーに預けて駅を後にした。
海は歩いて5分の所にあった。夏休みでも無い平日の昼の海。子供連れの母親の姿が何人か見えるくらいだ。私は堤防でそれを眺めていた。電車で見た時には鈍く少し灰色を帯びた海は、ここで見ると綺麗な空色で、吸い込まれるように私はその青を見ていた。
無機質な電子音が私の意識を引き戻した。ハンドバックの中で徐々に音が大きくなる携帯。表示を見て、少しだけ気持ちが重くなった。
「もしもし」
「今、どこ?」
付き合いの深さは時に容赦なく私の痛い所を突いて来る。
「外に出てる」
「実家の方か?」
「違うよ」
「じゃあ、どこ?」
「・・・わかんない」
「迷子か?」と尋ねる電話越しの彼に私は「違う」と答える。「どういう事だ?」と心配そうに聞く彼。嘘も方便なのだから、心配させないように嘘を紡ごうとしても良い口実も見つからず、上手く口も動いてくれなかった。
「」
彼が優しく名前を呼ぶ。
「俺に嘘は吐くなよ」
だけど彼は厳しい。
「吐かないよ、圭介。約束したでしょう?」
携帯を耳に当てたまま、上を見て私はそう言った。その言葉は海よりも澄んだ空に吸い込まれて行った。
幸せな筈だった。幼い頃から一緒に居た幼馴染。大好きだった幼馴染、山口圭介。圭介が好きだった。圭介がサッカー選手で無くてもサッカーをやってなくても好きと言いたい所だけど、サッカーをやっていない圭介は最早圭介じゃないと言えるくらい、圭介はサッカーにどっぷり足先から頭まで浸かっていて、そんな彼が誰よりも好きだった。告白された時には嬉しくて涙が出た。プロポーズされた時には号泣してしまった。
ただ圭介と居られたらそれで良かった。別に順風満帆な生活を思い描いていた訳ではないけれど、一緒に暮らすようになって、喧嘩する回数は一気に増えた。幼馴染で一緒に居た時間は長いけれど、それぞれが別々の家庭で生まれ育っている以上、生活習慣の違いがあって当然なのだ。食事に始まる生活のちょっとした違いから始まった喧嘩、影で泣いた事だって何度もある。だけど好きだから愛していたからずっと傍にいた。
生活にも慣れ、私達が妥協と譲歩、協力と言う物を覚えた頃、圭介は一枚の紙を持って来た。婚姻届と書かれた紙。結婚すると言う事を改めて認識した私を襲ったのは、信じられない事に何とも表現しがたい憂鬱な気持ちだった。これが世に言うマリッジブルーだと知った時には、私の中の憂鬱な気持ちは最早どうしようも無いくらい膨らんでしまっていた。
山口圭介と癖字の彼が頑張って綺麗に書いた名前の横に、私も名前を書こうとボールペンを持ったけれど、ボールペンが紙に触れるか触れないかの所で、私の右手は小刻みに震え始めた。カタカタと震える私の手。慌てて押さえると、掴んでいたボールペンが音も無くカーペットの床に沈んで行った。それを拾った圭介は「何、震えてるんだよ」と少し可笑しそうに言うので、「嬉しくて緊張して」と嘘を吐くと私の頭を彼は愛しそうに撫でた。一緒に暮らす時、嘘だけはお互いに吐かないと約束したのに。こんなにも圭介は優しいのに。大好きなのに、愛してるのに、どうしてこの人の傍に居られるのに、私は憂鬱なんだろう。
成人した証人が2人必要だったので、提出は先延ばしにされた。私には都合が良かった。どうせなら覚えやすい日にしようと圭介が言うので、私は思い切って2ヶ月後の圭介の誕生日を提案した。圭介は少し渋ったものの、体育の日である10月10日と言う響きの良い自分の誕生日を気に入っているので、意外にもあっさりと受け入れた。圭介の事を私は夫と周囲には言っている。婚姻届はまだ提出していないけれど、そっちの方が何かと都合が良いのだ。プロになった分、圭介は何かと注目され、マスコミに囲まれる事だって珍しくないのだから。
何も無いまま1ヶ月が過ぎた。私の憂鬱な気持ちは相変わらず膨らんだままで、いつもは目を逸らしているけれど、時々うっかり触れてしまうと色んな事を考えさせられて、その度にまた少しずつ気持ちが膨れていった。そして今日、膨らんだこの気持ちは限界まで膨れ上がったのだ。爆発したと言うよりも、膨らんだ風船から空気が抜けるような感覚だった。何もかもどうでも良いと自棄になるには些か理性が残り過ぎていて、けれどこのままこの家で圭介の帰りを待つ事も出来ず、「数日留守にします」とメールを圭介に送ってあの家を飛び出した。
その後の圭介の質問に答えられず、黙ったままの私に「どうしたい?」と圭介は聞いて来た。その優しい声に涙が出そうだった。私は少し考えた後、「少しこの辺りを散策して見て回りたい」と言った。「折角だから温泉にも入ってくれば良いんじゃない?」と言う彼に頷くと、「宿泊場所決まったら連絡するように」と念押しされ、「ゆっくりして来い」と言う言葉を貰った。
「ありがとう、圭介」
涙声になるのを必死で押さえて伝えると、電話を切った。通話画面から待受画面に切り替わった携帯の画面に、雫が1つ落ちた。液晶画面が水滴で歪む。それを拭き取ると、ハンカチを瞼に押し付けた。ポタポタと落ちて行く。涙が止まらない。水色のタオル地のハンカチが濡れて行く。圭介の優しさに触れる度に、私は堪らなくなって自己嫌悪に陥るのだ。
人気の無い所で泣くだけ泣いたら不思議とすっきりした。多分、このモヤモヤした気持ちを抱える私を圭介が許してくれたからなんだと思う。大きく伸びをして最後にもう1度だけあの空色の海を見た。全てを包み込む大きさ、そしてどこまでも澄んだ青い海は圭介みたいだと思った。
海のある街ともお別れをして、私はやって来た快速電車に乗り込んだ。帰宅ラッシュにはまだ早く、やはり車内は空席が目立ち、閑散としていたけれど、各駅電車のように貸切とは行かずに、電車の音とアナウンスの音に人のささめく声が加わった。先程までの私だったら、おそらく人のささめく音に苛立ちを感じていたかもしれない。それだけ先程までの私には余裕が無かった。深く息を吸い込み吐き出す。深呼吸をした後の気分は悪くない。泣いた時に胸の内の吹き溜まりも流れ出したのか、薄れた気がした。
終着駅に到着し、電車内に居た乗車客がぞろぞろと降りて行く。その中に混じって私も降りて行った。乗り越し清算機と書かれた機械を改札の前で見つけ、試しに切符を通して見ると230円と文字が表示された。財布から小銭を取り出して投入すると、オレンジの切符とは別の色の切符が出て来た。2枚一緒に改札の機械を通すと、機械に阻まれる事無く改札を通り抜けた。
数時間ぶりにまた案内板の立つ。そろそろ日も暮れて来て、乗客も増え始めていた。どこかに泊まるならそろそろ目的地の1つくらい考えなければいけないだろう。案内板に目をやれば、その中に見慣れた地名を発見した。数年前まで私が住んでいた街の駅だ。財布を漁るが小銭が無く、千円札を入れて前よりも沢山出て来た釣銭を受け取って、再び改札へと歩き始めた。
数年振りに懐かしい駅前に立った時には、日はすっかり暮れていた。駅前に大きなショッピングセンターがいつの間にか出来ていて、時の流れを感じずには居られなかった。所々に赤い堤燈がちらほら見える。そういえば地元の祭りはこの時期だった事を思い出し、コインロッカーにまたボストンバックを預けると、お囃子や人の声に誘われて会場へと歩いた。
会場が近づく度に人の濃度が増して行く。カキ氷、リンゴ飴、クレープと言った屋台でよく売られている食べ物を手にした人が良く目に付いた。友人同士で遊びに来ている制服姿の中学生。浴衣姿の彼女の手を引く男の子は高校生くらいだ。孫にせがまれて財布の紐が緩くなっているお婆さんもいる。母親にお小遣いをねだる小学生も居た。色んな人達の間をすり抜けるように私は歩いていると、藍色の甚平姿の男の子が目に付いた。小学校低学年くらいの子だ。髪はツンツンと跳ねていて、どこかで見たような顔の男の子だった。
「待ってよー」
私の横を小さな影が横切った。男の子の後を追うように、ピンクの浴衣姿の女の子が走って行く。背中の金魚帯がふわふわと浮くように揺れていた。
「遅いよ!」
「早過ぎるよー」
どこかで見たような光景だった。既視感を感じていると、男の子は女の子の手を取った。
「ほら、早く行かないと無くなっちゃうよ!」
そう言って男の子は女の子を手を引っ張って走り出した。キンと高音の金属音がして、昔の出来事の1つが少しずつ思い出されて行く。
「、遅いよ!」
「ケースケ、早過ぎるよー」
「ほら、早く行かないと無くなっちゃうよ!」
まるで昔の思い出の再演だった。小さな子供達の姿は人の波に飲まれてもう見えない。あの時は・・・そうだ、圭介が当時大好きなテレビ番組のロボットの玩具が屋台にあったけれどお金が足りなくて、祭りから帰ってすぐに貯金箱を割ったらギリギリお金はあったけど、明日ね、とお母さんに言われたケースケに頼まれて一緒に家を抜け出したんだ。後で物凄く怒られた事を思い出し、思わず笑ってしまった。毎年のように来ていたあの玩具の屋台のおじさんは今年も来てるのだろうか。懐かしさに釣られて毎年屋台の並ぶ空き地の一角まで足を伸ばす事にした。
昔と同じように、いつもの場所にその玩具の並ぶ屋台はあった。私の子供の頃からだから彼是15年以上になるけれど、祭りの時期になるとこの屋台はいつもここにあった。最近テレビのCMで聞く魔法少女の玩具があるかと思えば、私が子供の頃に流行った玩具も並んで居た。圭介があの時欲しがったロボットの玩具はあるのだろうか。新旧入り混じった玩具の数々を眺めていると、またあの子供達の声がした。
「・・・ない」
男の子が財布を握り締めたまま、ガックリと肩を落としていた。横に居た女の子が何度も慰める。
「欲しかったんだけどなぁ」
「残念だね」
「今回は諦めるよ。あ、お前の欲しいのはあった?」
「あったけど」
「じゃあ、買って帰ろうぜ。母さん達にばれたら怒られる」
「もうばれてると思うけど」と呟いた女の子は玩具の指輪の箱から、1つ取った。やって来た店のおじさんに小銭を渡す。嬉しそうに女の子が指輪を光にかざすと、青く光っているのが見えた。しかし、次の瞬間、ビクリとその小さな体を大きく震わせた。子供達の母親らしき2人組の女性が「こらっ!」と子供達に対して怒ったからだ。指輪を持ったまま、おろおろとする女の子。男の子が女の子の手を掴み、「逃げろ」と言って走り出した。小さな影2つが再び人の波に消えて行く。慌てて追う女性達の後姿を見送って歩き出そうとしたら、足元に光る何かを見つけて拾い上げた。キラキラと屋台のまばゆい電灯で輝く青いガラスの指輪だった。ポケットにしまい込んで、子供達の後を私は追った。
この祭りの人出に加えて小さな背丈の子供達だ。どこに行ったのかはっきり見ていなかったけれど、何となくここだと言う目星は付いていた。屋台から歩いて5分。100段は優にある石段を登った先に、神社があった。いつもなら真っ暗なこの場所も祭り期間中は煌々とライトアップされていて、その裏手に回れば予想通りあの子供達が居た。
「指輪無くしちゃったよー」
わんわんと泣く女の子を必死で男の子が慰めていた。私はどのタイミングで渡すか眺めて居ると、男の子が女の子の頭を撫でながら真剣な顔で言った。
「大人になったら、僕が指輪を買ってあげるから!」
どこまでこの子達は私達に似てるのだろう。私が子供の頃にも同じ事があった。圭介の欲しいロボットの玩具は無くて、私は欲しかった指輪を買って帰ろうとしたらそこでお母さんとおばさんに見つかった。圭介に引っ張られて秘密基地にしていた神社まで来たけれど、そこで私は握っていた手に買ったばかりの指輪が無い事に気付いて大泣きしてしまった。そんな私に圭介はどうしようとおろおろしたけれど、しばらくしてさっきの男の子と同じように真剣な顔でこう言った。
「大人になったら、僕がに指輪を買ってあげるから!」
そう言えば指輪もまだ買って無かった。婚約指輪はお蔵入りしそうだからと買うのを止めて、結婚指輪の方は欲しいデザインが見つかったら教えると言ってまだ買って無かった。欲しいデザインの物はとっくに見つけているのに、圭介に伝えてないのは憂鬱な気持ちを抱えたままこのまま結婚して良いのか迷っていたせいだ。どうしてなんだろう。子供の頃はあんなに欲しかったのに。買ってくれると言った圭介に「約束だよ」と言ったのに。指切りまでしたのに。
昔を思い出していたら、目の前の子供達も指切りをしていた。まるであの時の約束を忘れるなと言わんばかりに、眩しい笑顔の子供達は昔の私達と同じように指切りをしていた。
人の足音がした。石段を登って来る人の足音。祭りの会場でも何でも無い夜の神社に一体何の用だろう。子供達は「誰か来た」と言って神社の軒下に隠れてしまった。子供達の後に続く訳にも行かない私は、徐々に近づく足音の主を待った。
「・・・?」
「圭介?!」
白いキャップにオレンジ色のサングラス。髪の毛は茶色だけど間違いなく圭介だった。変装用で買ったヘアカラースプレーをまた使ったのだろう。宿泊場所が決まったら連絡するつもりだったけれど、お祭りの賑やかな雰囲気に釣られて、まだ決まってなかったので連絡してない。飛び出して来たマンションからここまで優に100キロ離れているのに、何でここにいるんだろう。しかも、こんな人気の無い神社に。驚愕の余り私は食い入るように圭介の顔を見れば、嬉しそうな顔で圭介は近寄って来た。
「何でここに?」
「何だかんだ言って、最後には実家の方に来るかなって思って。しかも今日祭りだろ。、祭り好きだから居るなら屋台の方かなって思って行ったら、似たような奴が神社の方に行くのが見えたから後追って来た訳」
「当たってて良かったー」と言ってニカッと笑う圭介に呆れを通り越して脱力してしまった。「あ、そう・・・」と気の抜けた言葉が口から漏れる。
「少しは落ち着いたか?」
「うん」
圭介の手が伸びて来る。くしゃりと私の髪をかき上げる感触が心地良かった。感触の良さに目を閉じると、頬にキスされる。
「マリッジブルーなんだろ?」
耳元で囁かれたその言葉に、私は閉じていた目を見開いた。
「お前の様子が少しおかしくなったの、結婚話進めて来た頃だったからさ」
「気遣う余裕が無くてごめん」と言った圭介に首を振る。けれど圭介はそんな私に首を振った。
「俺と違ってお前は結婚するに当たって色々変わらなきゃいけない事多いだろう?名前も変わるし、周囲の反応も変わる。憂鬱になっても仕方ないと思うんだ」
「だけど・・・」と言って圭介は少し黙り込んだ。大きな両手が私の頬を包む。
「苦労も掛けると思うし、この前みたいに喧嘩だってするし、泣かしてしまう事もあると思う。だけど、俺、お前が居なきゃ駄目だから、一緒にこれからも居て欲しい」
今日は泣いてばかりだ。数時間前に気が済むまで泣いたのに。堰を切った私の涙は両目から一気に溢れ出した。
「あ、お前、さっきも泣いただろ」
「何で知ってるの?」
「携帯切る前に聞こえた」と言う圭介は私を抱き締めると、頬を伝う涙を拭った。ハンカチとかちり紙とかじゃなくて、服の袖って辺り、圭介らしい。
「なんかこうしてると、昔、ここでお前が大泣きした事思い出すなぁ。お前、子供の頃、何かあるとここの神社のそこの軒下で泣いてただろ」
「だってあそこ、私の秘密の隠れ家だったんだよ」
「そうそう。俺にだけ教えてくれて、俺の秘密基地にもなったんだよな」
懐かしそうに神社を見る圭介。そこでようやく軒下に隠れた子供達の事を思い出し、軒下を急いで覗き込む。だけどそこには闇が広がるだけだった。
「秘密基地まだあるか見てるのか?」
「ちーがーう。さっき玩具落とした子供達がここに入って行ったの」
からかう圭介にそう告げると、圭介は腕時計のカバーを回した。カチリとスイッチの音がすると、圭介の着けていた腕時計は懐中電灯に早変わりした。白い光が軒下を照らす。しかし、子供達の姿はどこにもいなかった。
「見間違いじゃないんだよな?」
「うん」
くまなく軒下を探した圭介が首を傾げる。神社に続く道はあの石段の続く1本だけで、見逃したとは考えにくい。まるで幻のように消えてしまった子供達。夢だったのかと思いポケットに手を伸ばすと、カチリと当たる感触。取り出せば、あの女の子の落とした指輪は神社のライトに照らされてキラキラと青く光った。
「それ、お前が祭りの時に落とした指輪に似てないか?」
「あれも青かった気がする」と言う圭介に言われて、ようやく思い出した。あの藍色の甚平を着た男の子が子供の頃の圭介に良く似ている事を。実家のアルバムにあの桃色の浴衣を着た子供の写真が何枚もある事を。
「似てる。そっくりだ」
あの子供達と会う事はもう無いような気がした。何故会えたかわからないけれど、あれはきっと人を誘うようにあちこちに点けられた赤い堤燈が見せた幻なんだと思う。
ノスタルジーの幻燈
ごめんね、心配掛けて。ありがとう、忘れてた事を思い出させてくれて。私、幸せになるから。圭介と幸せになるから。もう迷わないから、その代わりこの指輪頂戴。もう無くさないから。大事にするから。
青い指輪を右手の薬指に嵌める。子供の玩具でも何とか入った。手をかざせば、指輪に付いたガラスがキラキラと光った。すっと圭介が右手を取ると、私の指から指輪を抜く。左手を取られて、その意図を理解し、静かに圭介の一挙一動を見守った。ゆっくりと私の左手薬指に玩具の指輪が入って行き、そして・・・・・・間接の所で止まった。
「あー、入らねぇな、これ」
「左の方が普通細い筈なんだけどね」
ぐいぐいと押すものの、間接より先に進まず、皮膚を引っ張るだけで痛いと言えば、圭介は諦めて右手の薬指に嵌めなおした。そのまま私の右手を握り、歩くように促した。
「今度、左に入る指輪買いに行くぞ」
「あ、結婚指輪買わなきゃね」
「それも買うけど、別の指輪もお前に買ってやるよ」
「え?婚約指輪の事?良いよ、冠婚葬祭の時くらいしか付け無さそうだし」
「昔、ここで約束しただろう?買ってやるって」
「良く覚えていたね」
「なんかここに来たら昔の事、色々思い出した」
「約束果たさせろよ」なんて圭介が茶目っ気たっぷりで言うから、思わず頷いてしまった。どうせならキラキラ光る綺麗な青い石の付いた指輪にしよう、なんて考える。今度、結婚指輪を見に行く時に探しに行こう。圭介も連れて。何だか楽しくなって来た。
きっと、マリッジブルーも近いうちに解消されるだろう。
「、これ!昔、買えなかったロボットの玩具あった!」
「・・・買うの?」
「・・・駄目?」
「良いけど、置き場所ちゃんと考えてね。その辺に投げてたら問答無用で圭介の実家に送るから」
私の脅迫めいた言葉に、ロボットの玩具の箱を持ったまま、圭介は悩み出した。箱を手放さない所を見ると、絶対買うつもりなのだろう。
祭りの帰り道、玩具の指輪をする私と玩具の箱を抱える圭介の姿があった。