久しぶりにその顔を見せた男は、妙に強張った表情を崩さないまま、部屋へと足を踏み入れた。




伊達に付き合いが長い訳ではない。その表情を見て思い浮かんだのは、去年の冬の事。その日、緊張の余り強張った顔でやって来た彼は、無言のまましばらく私の顔を眺めた後、ぽつりと「海外に移籍するかも」と漏らした。確定事項かどうか尋ねると、そういった話がオランダのチームから舞い込んで、彼も承諾したので、現在はオランダのチームと現在所属しているジュビロとの間で交渉が進められていると言った。レンタル移籍と言って、現在所属しているチームと契約は続行するものの、期限付きで他のチームに移籍するシステムのようだ。移籍期間中にその活躍が認められた場合には、完全に移籍先のチームと契約するらしい。


正直、承諾する前に一言言って欲しかった。彼が海外に行くのに際し、彼が一緒に来て欲しいと言えば私も前向きに検討したし、逆に残って帰りを待っていて欲しいと言えば、私はその言葉に頷いただろう。彼にとってサッカーは全てにおいて最優先しなければならないものだと言う事は、この長い付き合いで嫌でも理解している。第一線の選手として活躍出来る時期は、人生の中でもそう長く無い。全てを犠牲にしてと言うのは流石に言い過ぎかもしれないが、それだけサッカーに自分を捧げなければ選手として生き残れないのが現実だった。


「それでさ・・・」
「うん。・・・本決まりしたら、色々と私達も決めなきゃね」
「・・・ああ」




あの時、私は物分りの良い振りをして、それ以上、彼に何も言わせなかった。結局、チーム同士で交渉したものの、互いに合意を得られなかったようで、彼はジュビロに残留する事になり、彼からその話を切り出される事は無かったが、私の胸には小さな棘が残った。


彼はあの時、私に何を言おうとしたのだろう?


あの時、彼に言わせなかったのは私自身だと言うのに、後々その疑問は小さな棘となり、私の胸に突き刺さった。時折、棘から痛みを感じるのは、彼のこちらを窺う態度のせいだろう。あれ以来、彼は時々こちらを窺っては何かを切り出そうとしていたが、今はその時期では無いのか窺うだけに留まっていた。それについて遠回しに尋ねてもはぐらかしてばかりで、じわじわと不安だけが積もって行く。不安が積もれば思考も自ずとそちらに染められて行くもので、いつしか私は『彼は別れを切り出したがっているのでは無いのか』と言う考えに達していた。




それはあくまで可能性の1つだったが、そこに辿り着いた時、ずっと組み合わなかったパズルが一気に組み合わさったような、喉につっかえた何かが急に取れたような、妙にすっきりとした感覚を覚えたのも確かだった。あのこちらを窺う眼差しと、彼の不安げな眼差しもそれなら説明が付く。いつ別れを切り出そうか、別れを受け入れてくれるだろうか。彼はそんな事を考えながら窺っていたのかもしれない。別れたいなら冷たく突き放せば良いのに、馬鹿みたいに人の良い彼の事だ。きっと他の誰かを好きになっても、私に冷たい態度で接する事も、まして突き放す事も出来ないだろう。彼との付き合いも、もうじき2桁分の年になろうとしているのだ。今の関係を言葉で表すならば、『恋人』兼『親友』兼『元戦友』・・・と言った所か。付き合いの長い分、彼が私に求めて来た部分はそれなりに広く、私も彼の力になれればとそれにずっと応えて来たのだ。






珈琲メーカーが電子音を鳴らし、私の意識は思考の海から現実へと引き戻された。黒い大理石に細かな白い石の粒を散りばめたような柄のシステムキッチンと、白い小さなタイルの張られた壁が視界に広がる。彼を家に通して、珈琲を入れるとキッチンに入ってからどれくらい経っただろう。わざと時間が掛かるように珈琲メーカーをセットしたのは、きっと彼のあの強張った表情を見たからだ。心がやけにざわついて、彼の言葉次第では何を仕出かすか自分でもわからない程、あの表情に心を乱された。今も・・・平常心には程遠い。それでも先程よりは大分マシだった。


珈琲1つ出すのに、これだけ時間を掛けた事は今まで無かった。それだけ今の私にはこの気持ちが少しでも落ち着く時間も欲しかったが、これが最後かもしれないと思うと手が足がゆっくりとしか動いてくれず、トレイに珈琲と茶菓子を持ってリビングに戻った時には、彼を1人にしてから20分以上は経過していた。そのせいなのか、


彼の姿はどこにも無かった。






息を飲み込み、状況を把握するように目を忙しなく動かせる。しかし、視界内に彼の姿は捉えられず、手に持ったトレイが邪魔だったのでソファー前のテーブルに置こうとすれば―――ソファーにうつ伏せになった状態で眠る彼の姿があった。




よくよく考えれば、部屋に彼を通した後、ソファーに座らせて、珈琲を持って来ると言ってキッチンに入ったのだ。真っ先に調べなければいけない場所なのにも関わらず、その事を失念していて、己の失態と見つかった安堵に飲み込んだ息を大きく吐き出した。


「まったく、もう」


私の心配を他所に、彼、山口圭介は爆睡と言って良い程、深い寝息を立てて眠っていた。2人掛けの黒の革張りのソファーは私が横になる分には充分な長さだったが、180センチ近い圭介では長さが足りない。その為、圭介は足を宙に浮かしたまま寝ると言う非常に器用な事をやっていた。これが横寝や仰向けに寝ていたら、足を曲げて寝れば良かったのに、余程、眠かったに違いない。顔を覗き込めばだらしなく口が開けっ放しになっていて、口元には涎らしきものが光っていた。強張った顔は眠っていても引き攣ったままで、普段は精悍な顔が酷い有様だった。熱狂的な女性ファンや圭介を狙う女子アナに見せてやりたいと思うと共に、まだこの家がリラックス出来る場所である事がとても嬉しく思えた。


顔を覗き込む前は叩き起こそうと思っていたが、こんな姿を見てしまったら、叩き起こす真似など出来る訳が無い。寒くないように毛布を掛けて、空調の設定温度を2度上げる。これで起きた時に風邪をひいていたという事はまず無いだろう。寝ている体勢のせいで、起きた時に体が痛いかもしれないが、流石に私が圭介を寝室に運ぶ事は出来ない。






先程の出来事のせいですっかり目がえてしまった。壁時計を見ればもうすぐ日付が変わろうとしていて、いっそこのまま起きていようかとすっかり冷えた珈琲を喉に流す。思えば10年前のあの時から私はずっと圭介に囚われている気がした。


元々私達は住んでいる地域が違う者同士だった。共通の友達も無く、一生縁が無いまま終わったかもしれない圭介と出会ったのは、ナショナルトレーニングセンターと言う全国から将来有望なサッカー選手を集めた講習会。そこで臨時の東北地区のマネージャーとして参加していた時、夕食後に飲み物を買おうとして自販機にお金を入れていると、後ろから強い衝撃を受けた。自販機と後ろからぶつかって来た体格の良い人間の間に挟まれ、私はまったく身動きが取れず、目を瞑って痛みに耐える事しか出来なかった。その痛みも一過性のもので、痛みが和らいだ頃に目を開けると、おろおろと取り乱した同じ年頃の少年、当時15歳の圭介がそこに居た。どうやらふざけて飛び掛って来た顔見知りの少年に押されて、その勢いで私にぶつかって来たらしい。


今まで同世代の人間からこれほど丁寧な謝罪を繰り返し受けた事は無かった。真摯に謝罪するその姿や大本の原因が別の人間にある事。痛みも一過性のものですぐに消えた事もあったので、許さないなどと思う筈も無く、逆に必要以上に謝罪する圭介を止める方が大変だった。


ぶつかった衝撃で床に落ちた小銭やコインケースを拾い、自販機で飲み物を選んでその場を去るつもりだったが、自販機に点いている筈のランプは消えていて、その代わりに取り口に缶が1本落ちていた。ぶつかった衝撃でどうやらどこかのボタンが押されてしまったらしい。


この際、何でも良いやと思って取り口に手を伸ばせば、出て来たのはホット珈琲。しかもブラック。よりによって自販機で1番飲めない物が出てしまったと眉を顰めると、すぐ横で私を眺めていた圭介がせめてお詫びに奢らせてくれと提案して来た。軽い押し問答の末、出て来たブラック珈琲を圭介が飲む事になり、私は普段飲んでいるカフェオレのボタンを押した。僅かな罪悪感もあったが、このまま飲まずに持っているよりは、飲める人に飲んで貰った方が良いだろう。そう思って買って貰ったカフェオレに口を付けたのだが、すぐ横で「苦っ」と言う本来なら有り得ない呟きを聞いた。


やっちゃったという顔の圭介を見て、今までブラックで飲んだ事が無かったのか、それとも元々飲めないのに気を遣って飲めると言ってくれたのか、そのどちらかとすぐに察した。どちらにしても圭介はブラックを苦いと思わず漏らしてしまった事には変わりなく、どうしようかとこっそりと様子を窺えば、物凄い勢いで珈琲を飲み干すのが見えた。


何て言葉を掛けたら良いのかわからない。ぐるぐると一通り考えた末、日頃、父の操縦に定評のある母の言葉をそのまま実践する事にした。


「あの、ありがと。良かったらこれ、どうぞ」


ポケットの中に入っていたビスケットとキャラメルを圭介の手の平に乗せる。ぎこちない私の言葉に対して圭介もぎこちなくお礼を言うと、そのままキャラメルの封を開けて口の中に転がした。どうやら余程苦かったらしい。それを見て私が思わず笑うと、圭介も照れ臭そうに笑い、緊張の解けた私達は少しずつお互いの事を聞いたり話したりし始めたのだ。






友人期間、約1年。その後、圭介から告白されて私達の交際が始まった。居住地が東海と東北なので、結構な距離の遠距離恋愛である。学生の間は、毎日メールや電話は欠かさなかったが、年に数回顔を合わせれば良い程度。圭介がプロのサッカー選手になって、私の進学先が静岡の大学に決まってようやく距離は縮まったけれど、サッカー選手と交際ともなると気が抜けず、圭介と居る時は出来るだけひっそりと目立たないように過して。卒業後、静岡に就職先を見つけた私の暮らしは変わらずそのまま。仕事をして、圭介と電話やメールをして、時折会っての繰り返し。出会ってからもうじき10年。四捨五入すれば三十路になる年になったのにも関わらず、仲良くなれた切欠であるビスケットとキャラメルを捨てる事が出来ない。あの時から私は圭介に囚われているのか。いや、きっと私自身がそうなるように自らを押し込めたのだろう。愚かだと思う。重い愛なのかもしれない。圭介出す珈琲の茶菓子にいつもこれを出すくらいなのだから、『イタイ女』なのかもしれない。


自虐的な思考を繰り返した私は、視線をソファーで眠る圭介に移した。今はだらしなく眠っているが、それでも自分には出来過ぎた恋人なんだと思う。サッカー選手である上、顔も良い、性格も良いとなれば、周囲の女性が狙いに掛からない訳が無い。圭介が一般女性と付き合っていると言う話は割りと有名だ。噂や偽の情報を週刊誌に事実のように書かれる前に圭介が自分で喋った。けれど、圭介を狙う女性たちの猛攻は止まらない。バラエティ番組やインタビュー番組で、あからさまに圭介にアプローチを掛ける様子を何度も目にしている。付き合っているのが、一般女性である私だから奪いやすいと思っているのだろうか。私が一般女性でなければ、圭介を狙う女性達が納得するだけの女であったら、圭介の隣に立つに相応しい女だったらならば、こんな悔しさや嫉妬が入り混じった気持ちにならずに済んだのだろうか。


マイナス思考だと自分でも思うし、今日の自分はらしくないとも思う。でも、改めて考え直すと、私は圭介の隣に立つには余りに普通過ぎた。特別な物を持っているかどうか聞かれたら、圭介絡みのエピソードくらいしかない。珈琲とキャラメルとビスケットしか無いのだ。・・・だからこの年になっても手放せないのだろう。






カーテンの隙間から見える空は、淡い紫のグラデーションが掛かっていた。立ち上がり、カーテンを大きく開く。上は夜の藍色、下は太陽の赤色。徐々にお互いの領域を侵略するように色を染め、その空の真ん中の部分は淡い紫色になっていた。もうしばらくすると朝日が昇り、この色も消え去ってしまうだろう。気が付けば、一晩、ずっと圭介について考えていたが、これからどうしたいかはまったく考えてなかった。ずっと同じ場所で停滞している訳にはいかないだろう。この空のように、変わらないものは何1つ無く、その移り変わりは時に恐ろしい程、早い。


もし圭介が別れ話をしようと今日来たのなら、もうどうにもならないだろう。私の見立てでは圭介は1年くらい前からずっとその機会を窺って来たのだ。いくら好きでも心変わりした相手にしがみついていては、私も幸せにはなれないだろう。それならば多少痛みを伴っても別れた方がマシだ。別れるならばすっぱり別れてしまおう。私は圭介にとって『恋人』兼『親友』兼『元戦友』だけど、『恋人』を辞めた私が『親友』や『元戦友』にはなれない。そこまで私は人間出来て居ないのだ。


だけど、今度はちりちりと未練が心の中をかき回す。このまま圭介が別れの言葉を切り出すのを待っていて良いのかと、圭介に対する未練が私に問い掛ける。圭介にしがみつくのは無しと決めたから、出来る事は限られる。今までに見たドラマの別れのシーンをいくつも思い浮かべるが、妙案は思い浮かばない。それならばいっその事、別れてしまっては絶対に言えない言葉でも告げようか。


例えば、


『                             』とか。







タイミングよく、ゴソゴソとソファーの上が動き出したので、起きたら圭介に言うとしよう。



決して別れてしまってはいえない言葉を。例え受け入れて貰えなかったとしても、言わないまま未練が残るような事にならないようにと。




「おはよう。圭介。あのさ、・・・・・・私と結婚してくれないかな?」



起きたばかりの寝惚けた状態だった圭介は、この言葉に一気に目が覚めたようで、その驚いた顔に少しだけ胸がすっとした。





キャラメル・コーヒー・ビスケット

















「あの・・・俺、1年前からずっとプロポーズする機会窺って来たんだけど?・・・そりゃ、ずっと切り出さずに居たのは悪かったよ。でも、今年もまた海外移籍の話が上がって来たから、今日こそプロポーズしようと思って無理してここまで来たんだよ。・・・うん、寝たのが悪かったな。の家に着いたら即効でプロポーズしようって思っていたから、珈琲入れて来るって言ってキッチンに行ったまま戻って来ないからさ。・・・うん、一気に気が抜けてそのまま寝てしまったな。・・・涎まみれにして悪い。・・・・・・いや、問題はそうじゃなくて、えっと、あの、何でからプロポーズしようと思ったんだ?・・・・・・・・・別れる?!冗談じゃないぞ!!の代わりなんてどこにも居ないんだからな!!テレビ局のタレントとか女子アナとか確かに顔は良いかもしれないけど、あのギラギラしたオーラ、マジ怖いんだからな!!仕事ならともかく、プライベートまであんな思いはしたくないぞ!!あー、もう、とにかく、俺が好きなのはお前!結婚したいのもお前だからな!!わかったか!!・・・プロポーズ、先にやられたー。もうどうすれば良いんだ?・・・・・・え?今のはプロポーズじゃないのかって?あのな。俺だって・・・確かに1年も言えないままだったから情けない奴だけど、プロポーズの言葉くらいそれなりに考えて・・・・・・え?言ってくれないのかって?あー、そうだな。・・・・・・じゃあ、気を取り直して」


、これからもずっと支えて欲しい。だから結婚してくれ」


「・・・それとプロポーズしてくれてありがとう、な」


「あー、今、俺、物凄くお前の珈琲飲みたい。淹れてくれるか?・・・うん、ブラックでよろしく」