変わり者とされる北の公爵がその現場に居合わせたのは偶然だった。崖の下の岩場に倒れているのはまだ若い女。きっと崖の上で泣き叫ぶ子供を助けたのだろう。幸か不幸かまだ女は生きていた。ただそう長くは持たないだろう。浅く繰り返すヒューヒューとする呼吸が、女の命の残り少なさを現していた。




公爵はヒラリと崖の上から飛び降りると、音も無く下に着地する。その人離れした芸当を涼しい顔でやってしまうのが、公爵が公爵と呼ばれる所以だった。


「こんにちわ〜」


間延びした声が薄れ行く女の耳にも届いた。辛そうに閉じられた瞳がゆっくりと開く。しかし、焦点は完全に合っていなかった。


「誰?」


衝撃で内臓もやられてしまったのだろう。血を吐く気力もなく唇から流す女は、静かにそう聞いた。


「貴方を迎えに来た者です〜」
「・・・貴方、死神?」
「似たようなモノですね〜」


楽しげに話す公爵に、女はぼんやりと視線を漂わせた。


「私をどこに連れて行くの?天国?地獄?」


散々殺したからね、と女は呟く。


「僕は死神では無いので、そちらには連れていけません。僕が貴方を連れて行けるのは『夜の国』だけです」
「・・・貴方、魔族?」
「そうですよ〜」
「私が魔族を一杯殺したのは知っているでしょう?」


それは女にとって死ぬ間際の懺悔だった。相手は女が散々殺してきたヒトでは無いモノ達。感じる威圧感からおそらく今まで出会った事の無い、上のクラスの。


「知ってますよ。貴方は僕の同族を一杯殺しました。でも、仕方ないでしょう。あの人達は『戦う気の無い貴方』を執拗に狙い続けた」
「・・・そんな事まで知っているの?」
「ええ」


ずっと見ていましたから。公爵の言葉に女は息を吐いた。肺もやられているようで、ヒューヒューという音はずっと消えない。


「残念だけど、私はここで死ぬの。闇の住人にはならないし、なれないわ。それくらい知ってるんでしょう?」
「僕をその辺の小物と一緒にしては困りますね。貴方1人、眷属にすること等、容易いことです」
「・・・上級魔族って事?」
「そうです。最も貴方達の組織も『存在する事』くらいしか知らないでしょうけど」


妙なのに目を付けられた、と歎息を漏らす。ヒューと言う小さく低い音が物悲しく響いた。


「私を魔族に変えて何がしたいの?今までの恨みを晴らしたいから?」


そんなの御免だわ、と女は吐き捨てる。公爵はやれやれと大袈裟に肩を竦めて見せると、


「僕がそんな下らない理由で眷属にする訳ないでしょう?やられる方が悪いんです。やられたくなければ強くなれば良い。貴方に殺されたくなかったら最初から手を出さなければ良い。そうでしょう?」
「その台詞、今まで来た人達に聞かせてやりたいわね」


ふふふ、と楽しそうに女は笑った。顔から血の気が完全に引き、蒼白。血に濡れた笑みを浮かべる唇が余計に鮮やかに見えた。


「貴方が見た世界はちっぽけなものです。だってそうでしょう。貴方の世界には襲い掛かってくる魔族と、組織しか無かった。折角生まれたのに勿体無くないですか?だから生まれ変わってみません?世界の広さを僕と見に行きませんか?」
「・・・貴方、嫌な人ね」


ようやく死ねると思ったのに。そう女は呟いた。穏やかな表情が歪む。


「悩むくらいなら死ぬ必要なんてありません。ね、僕と世界を見ましょうよ〜」


その高貴な出で立ちに似合わず、幼子が友人に遊びに行こうと強請る口調に、顔を歪めた女はふっと笑みを浮かべた。


「良いわ。貴方の世界を見てみたい」


血が生命維持に必要な量ギリギリまで流れてしまったのだろう。ガタガタと震え始めた体に女は顔を引き攣らせると、その横に公爵は膝をついた。自分の親指を形の良い唇に当てると、女の唇にあてがった。つぅっと親指から血が流れ、女の僅かに開いた唇の間を流れて行く。するとヒューヒューとあれだけ聞こえていた音が、しばらくすると止んだ。


「少しは楽になりました〜?」
「お陰さまで」


蒼白だった女の顔に赤みが宿った。先程まで虚ろだった瞳も焦点が合うようになり、女は公爵を物珍しそうに見ていた。


「あのままだと眷属にする前に死んでしまいますからね〜」


そう言うと公爵は女の腰と首の後ろに手を伸ばした。その距離の近さに女がピクリと体を揺らす。そんな女の初々しさが愛おしく、公爵は幼子にするように頭を数回撫でると、


「最初痛いだけですからね」


と告げて、女の細い首に牙を立てた。ビクンと弓形に女は体を反らした後、苦しげに眉間に皺寄せた。しかし、すぐにその苦しみも取り除かれ、とろんとした目には恍惚感すら浮かんだ。




変わり者とされる北の公爵が、己の最初で最後の眷属となるを迎え入れた瞬間であった。






始まりの刻