私はずっと空を見ていた。



空の色



授業が終わった時には、まだ空は透明な水色だった。帰りのショートホームルームの時もまだ水色だったと記憶している。それからずっと空の変化を眺めて来た筈なのに、気が付けば空は橙色に染まりかけていた。その変化があまりにもゆっくりなものだから、空の色の変わり目に気付けずに終わった。

「すいません。後、少しで終わりますから〜」

教室の窓から顔を出していると、背中に間延びした声が掛けられた。振り返れば教室の1番後ろの席に座る彼は、視線を机に落としたまま、忙しなくシャーペンを動かしていた。

「良いよ。ゆっくり書いて」

スガ、と愛称で彼を呼ぶと、彼は1度手を止めて顔を上げた。

「こんな時間まで待たせてすいません」
「仕方ないよ。結構休んだからページ数あるだろうし。こっちこそ貸せなくてごめんね」
「いいえ。さんのノート写させて貰えるお陰で何とか遅れを取り戻そうです〜」

にこりとスガは笑うと、「後、もう少しですから」と言って再び机に視線を落とした。サッカー絡みでスガは時々学校を休む。今回は1週間と結構長めだ。高校の授業は中学に比べて進むのが早く、本当はノートを貸せれば良かったんだけど、今日に限って宿題が沢山出た。しかも、提出期限が明日。今日珍しくサッカーの練習が無いスガに頼まれて、放課後、彼が写し終えるまでこうして待つ事になったけれど、密かにラッキーだと思っていた。私とスガしかいない教室。スガの邪魔にならないよう、静かに空を眺めているので、彼の動かすシャーペンの音が良く聞こえた。








スガとは去年も同じクラスだった。入学式が終わって緊張した面持ちで振り分けられたクラスの教室に入れば、とんでもなく身長の高い男子が教室の中にいた。無視しようにも無視できない存在だった。何せ視界の中に勝手に入って来るくらいの高さなのだから。別の意味で無視出来ない存在になったのは、それからしばらくしてからだ。


のんびりとした口調に温厚な性格。時々漏れるきつい一言には、いつもとのギャップのせいでにクラスメートを唖然とさせる事もあるけれど、須釜寿樹と言う人間は人を惹き付けてやまない男だった。


気が付けばスガの傍には誰かいる状態だった。クラスの男子の中では、スガ=頼れる男と言う法則が確立してしまったようだが、スガの方もスガの方でこういった状態が慣れているのか、波風立てずに手際良く応対していた。男子の壁が厚くて近づけない。クラスメイトの女子のそんなボヤキを、最初は良く聞いたものだ。


そんなスガを私はクラスの端で眺めていた。窓際の1番後ろの席に座るスガに対し、私は廊下側の1番後ろの席で。文字通りクラスの端で眺めれば、スガの周りにまずクラスの男子がいて、それを遠巻きで見ながらも頑張って接点を作ろうとしている女子がいるのが見えた。遠くで眺めている私はクラスで1番スガから遠いクラスメイトだったのに、去年の夏にそのポジションが崩れる出来事が起きた。


地区大会やインターハイで公欠したクラスメイト達とは微妙にずれた時期に、サッカーの試合でスガは1週間学校を休んだ。休んでいる間にスガの話を良く耳にした。クラブに所属してるとか、世代代表とか、どこまで本当かわからないけれど、スガがサッカーの凄い選手と言う事は本当なんだと思う。この前の体育の時間、男子も女子もたまたま同じ体育館でバスケットの授業があったけれど、スガはその恵まれた体格を活かして他のクラスメートとは一線画した動きをしていた。


久しぶりに学校にやって来たスガの周りには満員御礼の札が出せるくらい、クラス関係無く人で賑わっていた。周囲に男子、遠巻きに女子。スガは話し掛けて来る人、1人1人に挨拶をし終えると、まっすぐ私の方にやって来た。私の席はドアの1番近くなので、てっきり廊下に出るものだと思っていたら、スガはピタリと私の机の前で足を止めた。

さん、おはようございます」
「あ、おはよう、須釜くん」

まさか話し掛けられるとは思って居なかったので、私は少し上擦った声で挨拶を返した。椅子に座ったままの私に対し、スガは背中を猫のように丸めて少しだけその身長を低くした。お陰で上から見下ろされていると言う感覚があまり無かった。

「僕、1週間学校休んだんですよ」
「うん、知ってるよ」
「それで良かったらノート貸して貰えませんか?」
「・・・・・・私の?」

今、私は間違いなくクラスで1番注目されているだろう。今までスガは誰かに頼られる事はあっても、あまり頼る事は無かった人だった。頼るのが下手なのか、自分で出来る事は極力自分でやるようにしているのかわからないけれど、多分、そういう性格なんだと思う。スガに頼られたいなんて考えているクラスメイトはごまんといるだろう。それこそ、男女問わず。頼めば大抵のクラスメイトは快く貸してくれる筈なのに、何故よりによって私なのだろうか。最もスガとは接点の無い、遠い人間だと思っていたのに。

さん、この間のノート評価、オールAだったじゃないですか〜」

そのスガの言葉に合点がいった。この高校では通常のテストに平常点が加算された数字が成績評価になる。この平常点と言うのが曲者で、普段の授業態度が評価されるのだけど、それを計る為に定期的にノートの提出を求められていた。理系、特に数学が壊滅的な私は、平常点で如何にして稼ぐかがポイントだったので、真面目にやった結果、高校初めてのノート評価はオールAだった。別に言い触らした訳では無く、ショートホームルームの時間に、担任が何の気無しに口を出してしまって、それを聞いたクラスメイトの何人かが「凄い」とは言ってくれただけど、誰もノートを貸してと言う訳でも無かったので、私ですらすっかり忘れていた。

さんのノートなら、僕も遅れをすぐに取り戻せそうだと思ったんですよ。出来たら貸して貰いたいんですが、良いですか〜?」


にこーっと笑うスガのお願いを、断れる人が居たら見てみたいと思った。気が付けば、私は主要5教科のノートをスガに貸す約束をしていた。










放課後に貸したノートは翌日の朝には戻って来た。「お陰で助かりました」と笑顔で言うスガを見て、貸して良かったとノートを受け取って思った。1時間目の国語の時間、ノートを開けば一昨日の授業で書いた板書の写しの横に、明らかに私の字ではない文字が並んでいた。

『ノートありがとうございました。僕はサッカーをやっていて、その関係でこれからもたまに学校を休む事があると思います。良かったらまた貸して貰えませんか?』



流れるような綺麗な字だった。








それ以来、私はスガが休む度にノートを貸した。スガにノートを貸したくて、必死でノート評価をオールA取った人も居たけれど、何故かスガは私の所にしか来なかった。ノートを貸して行く度、私達の距離は短くなって行って、1年を経つ頃には私は学校の中の誰よりもスガに近い場所にいた。










橙色の空にトンボが飛ぶ。種類まではわからないけれど、1匹、私の近くに来たので指を差し出すと、近付いて止まってくれたかと思ったら、ついっと円を描いて沢山の仲間の居る空へと戻ってしまった。その姿がスガと重なる。


スガはトンボのイメージだ。遠い海外にも頻繁に行く羽があって、スイスイと空を飛んで渡ってしまう。近付いて来る、たまに止まってくれる、けれど高い所にいて手が届かない。今はスガは止まっていて、時々しか飛んで行かないけれど、いつかは私には手の届かない高い所に行ってしまうだろう。


私にもきっと羽はあるけれど、スガほど高い所まで飛べない蝶々の羽なんだと思う。ずっと上を見て居れば、時々スガの姿は見えるけど、止まっている今ほど近くで見える事はもう無い。空を飛ぶトンボに恋した蝶々は黙って上を見るしか無いのだ。








橙色を空が藍色に塗り潰し始める頃、トンボの姿は徐々に減って行った。きっと目の届かない高さまで飛んで行ってしまったのだろう。ふっと溜息を吐くと、「どうしたんです〜?」とすぐ横で声がした。振り返れば、スガがノートを片手に立っていた。

「あ、終わった?」
「はい、お陰さまで終わりました〜」
「お疲れ様」
「いえ、遅くまで待たせてしまってすいません〜」
「良いよ。どうせ部活も無いし」
「ところで溜息を吐いてましたけど、何か悩み事とかあるんですか〜?」

「良かったら相談に乗りますよ〜」と言うスガの気持ちは嬉しかったけれど、まさか悩みの原因に話をする訳にも行かず、「大した事じゃないから平気」と言った。

「あまり平気そうには見えませんけど〜」
「え?そう?」
「もしかして、恋煩いですか?」

図星を突かれて思わず唸ってしまった。隠したくてもこれでは隠しようが無い。黙り込むしかない私を見て、スガは「おや、正解ですか〜?」とのんびりとした口調で言った。

さんの好きなどんな人ですか〜?」
「・・・・・・トンボみたいな人」
「トンボ、ですか?」

まさか本人を目の前にして具体的な事を言える筈も無く、先程まで考えていた彼のイメージを伝えると、予想外過ぎる言葉だったのだろう、きょとんと目を丸くしてスガは手に顎を当てて考える仕草をした。

「トンボですか。フラフラ飛んでるイメージがありますね。平馬くんみたいに掴み所が無い人なんでしょうかね〜?」

へいまくんと言う人物を知らないのでその辺は何とも言えなかったけれど、私とスガのトンボのイメージは結構似てると思った。掴めそうで掴めない。スガもかなり掴み所が無い人物に見える。

「いつもまっすぐ上ばかり見ているの。高い所に行こうとしてるから、私じゃきっと手が届かない人なの」
「・・・だから、さんはこんなに切ない顔をしているんですね」

すっとスガの左手が私の頬に伸びた。突然の事に体が強張る。

「ところでさんはキリンは好きですか?」
「へ?」

聞き間違いかと思って聞き返すが、スガは繰り返し「キリンは好きですか?」と言った。スガの意図が掴めず、首を傾げながらもあの黄色く首の長い動物を思い浮かべた。


最初の思い浮かぶのは、祖父母の住む街にある大きな動物園に居たキリンだ。当時10歳にも満たない私は、生まれて初めて見た瞬間、キリンに恐怖を覚えた。


長い首が続いている。首の先を追って顔を上げれば、空と同じくらい高い位置にその顔はあった。私の視線に気付いたのか、それとも単なる偶然か、キリンはその長い首を下げて顔をゆっくりと下ろして来た。


優しい眼差しがそこにあった。








前を見れば、スガが優しい目でこちらを見ていた。慈しむような、優しい目。スガはキリンにも似てるかもしれない。思い出に浸りながら「好きだよ」と言い、その言葉の意味に気付いて、慌てて「キリンが」と付け加えた。そんな私に、クククと楽しそうにスガは笑った。

「僕、この間のサッカーの合宿で『また身長伸びただろ、お前!』って怒られちゃったんです」
「え・・・?」
「どうもその人はあまり身長が伸びない自分にイライラしているみたいでして。まぁ、それを補う技術と指揮能力持っていて、努力家の1人なので選抜メンバーの常連の1人なんですけどね。その人に言われたんです、『お前はキリンだ!』って」





「ねぇ、さん。僕はキリンなので、高い所は見ていても飛んでは行きません。手に届く所にいつもいます。だから、独りにはしません。僕とお付き合いして頂けないでしょうか?」




1年の時からさんがずっと好きなんです。




その言葉を聞いた時の驚きは、言葉に言い表せない程で。
言わなきゃいけない事は一杯あるけれど。
頭が真っ白になった後、沸き上がる言葉の渦に翻弄された。



最終下校を告げる放課後のチャイムが、この小さな恋の成就を祝うように鳴るのが聞えた。









「1年前に言ったトンボの人って覚えてる?」
「ええ、覚えていますよ。僕の好きな人の心の中を占めていた人でしょう?今更どうしたんです?まぁ、この1年で僕が完全に占めたつもりだったんですけど」
「そのトンボの人ってスガの事だったんだけど」


結局、あの後、最初に出た言葉は「私も好き」で。言う機会を失った話は、1年が過ぎたトンボの行き交う秋空を見て、ふと思い出して口にすると、スガはにっこりと笑った後、「いい加減、下の名前で呼んでくれませんか。そのうち、貴方も須釜になるんですよ」と私の言葉の返答にまったくなっていない言葉で返した。その代わり繋いでいた手を強く握られる。横を向けば、明るい空に負けないくらい顔を赤くしたスガがそこに居た。


珍しいものが見れたので、これで良しとしよう。
繋いだ手を握り返し、橙色に染まった街並みを2人歩いて行った。