東京駅から電車で十数分。降りて改札を抜け、大通りを歩く。都内とは思えない程、緑が多い印象を受けるのは、並木道のせいだろう。歩く途中に名門と名高い大学を示す看板が2つ。人の流れを良く見れば、大学生と思しき格好の人間が同じ方向に向かって歩く姿が見えた。今からきっと大学に向かうのだろう。講義が始まるまでもうあまり時間が無いのかもしれない。徐々に早くなる足取りの大学生達が数人、横を通り過ぎた。遅刻すると繰り返し口にする大学生は、おそらく自分同じくらいの歳だろう。言葉には切実な響きが込められていた。そんなに切羽詰っているのなら走れば良いのにと思ったのだが、気配は遠ざかるものの、なかなか消えなかった。つまりは、走らなかったのだろう。頭良いくせに、実践しないと少し皮肉めいた事を考えていると、目の前の信号が変わったので、渡る事にした。








武蔵森商店街北口。そう書かれたアーケードの入り口。左右に幾つもの個人商店が並ぶ中、200メートル程歩けば、アーケードの端に辿り着く。武蔵森商店街南口と書かれたアーケードの看板の横に、目的地はあった。商店が立ち並ぶこの通りには珍しく、客を呼び寄せる立て看板はおろか、店舗名の記された看板も無かった。


ポツンと1つ西洋風のドア、その横にブザーボタン。アイボリーの壁にたったそれだけが表の通りから見える。余計な物が無く、すっきりしているが、色とりどりのポップや電飾で人目を惹く作りが多い商店の一角にあるお陰で、閑静な住宅街にあればその中で埋没してしまうであろうこの建物は、ここでは逆に人目を惹いてしまっていた。実際、自分が知るだけでも、この建物が何の店かと噂する声を幾つも耳にしている。


何の躊躇いも無く、ボタンを長押しする。ジーとゼンマイの螺子が動くような音がしたら手を放す。すぐにスピーカー越しに声が聞え、名前を名乗れば、カチャリとドアの鍵が開く音がした。くすんだ色の真鍮のドアのレバーを下ろして、中に入る。


「失礼します」


誰の姿も見えない玄関。誰かに言う訳でも無いが、反射的に言葉にしていた。勿論、返事も無い。玄関で革靴を脱ぎ、奥に続くドアを開ける。開けた途端、廊下が明暗反応を起こさない程度の、ゆっくりとした速度で明るくなって行く。最初来た時には驚いたものの、ここに数度足を運べば次第に慣れるもので、今ではすっかり驚かなくなってしまった光景。完全に明るくなった廊下を進み、2階に続く階段を上がれば、お目当ての人物は机の前で書類と睨み合っていた。


「お邪魔します、さん」
「あら、笠井くん。お久しぶり」


笠井の声に弾かれたように、机に座る女は顔を上げた。ブザーを押した時点で笠井が来た事は知って居ただろうし、廊下を歩く音、階段を登る音も聞えては居ただろうけれども、まるで今気が付いたと言う姿だ。聞えてはいたけれど、反応しなかった。そんな所か、と笠井は推察する。


「電話で話をした案件に関して、書類をお持ちしました。確認して貰えますか?」
「良いわよ。あ、笠井くん、今日、急ぎで何か入っている?」
「今日は特に・・・。あ、夕食を食べに行くぞと『あいつ』に言われているくらいです」
「相変わらず仲が良いね」
さん程では無いですよ」
「ふふ、そうかしら。・・・ま、それならお茶入れるわね」
「あ、お構いなく」
「私が飲みたいの。気にしないで。笠井くん、珈琲と紅茶と緑茶どれが良い?」
「あ、じゃあ、紅茶お願いします」
「紅茶ねー」


そう言って女、は座ったまま移動した。否、座っていた車椅子の車輪を押して台所へと消えて行く。その動きはとてもスムーズで、彼女が如何に長く車椅子に乗っているかわかるものだった。


カチャカチャと言う食器を動かす音を聞きながら、笠井は手にした封筒を取り出した。








「この子が今回の受講者ね」
「そうです」
「・・・何の因果かしらね」
さん、知っているんですか?」
「直接的には知らないけれど、ちょっとね・・・」
「そうですか」


笠井の言葉にそう答えると、は書類に集中したのか、それ以外、何も言わなかった。笠井もその辺を心得ているのか、それ以上、質問をせず、黙ったままが書類を読み終えるのを待った。




PI(プライベートインベスティゲーター)(公認探偵)協会、特別研修プログラム実施案件

研修受講者、風祭将(飛葉探偵事務所所属 探偵助手)
研修教官、
日時、2月11日。
研修場所、K市S町4丁目3番地 PI協会本部2階応接室。




「飛葉って椎名くんの所属じゃない。珍しいわね、彼の所で特別研修に回されるなんて」
「・・・・・・あの椎名さんの手にも余る問題児だそうです」
「井上くんや畑兄弟以上って事?椎名くんの手に余る子、私で何とかなるかしら・・・」
「井上さん達ともまた違った問題児なんです」
「あー、もしかして・・・」
「やる気が有り余っているんです・・・」


やっぱりと呟くと、肩を落として紅茶を飲む。溜息を1つ吐き出したは、天井を仰ぎながら椎名くん、その手のタイプに弱いからなぁ、と漏らした。その口調は同情めいた響きが感じられた。


「風祭将。飛葉探偵事務所に所属して半年余り。椎名さん直々に指導し、2ヶ月前にはPIS(探偵助手)に合格。その後は椎名さんの助手として、現場に出るようにもなったのですが、どうも1人で突っ走るタイプのようでして。しかも、運が良いと言うべきか悪いべきと言うべきか・・・・・・犯人がアリバイ工作している最中にばったり遭遇したり、犯人が凶器をこっそり捨てようとしている最中にばったり遭遇したり、犯人が目撃者殺そうとしている最中にばったり遭遇したり」
「・・・・・・運が良いのか悪いのか悩むわね」
「実力が伴った探偵なら良いんですけどね。何とか対処するでしょうから。問題は彼がまだ実戦経験に乏しい探偵助手で、しかも時々捜査に夢中になって椎名さんの目の行き届かない範囲まで動くので、怪我が絶えません」
「怪我程度で済んでいれば良い方だと思うわ」
「毎回、椎名さんから説教されても治らない悪癖らしいです。ただ、あの椎名さん直々に鍛えるだけあって、才能はなかなか光るものがあるんですよ。協会としても優秀な人材は1人でも多く欲しいので、彼が助手の今の段階で研修を施そうと言う話になりました」
「教官は私、と。協会からは誰が派遣されるの?」
「俺です」
「あら、笠井くん。久々に現場?」
「ええ。『たまには現場に出ないと勘が鈍るわよ』って、西園寺さんに言われてしまいました」
「そう。あ、西園寺さん、元気?」
「元気ですよ。あ、さんに『今度、1度、顔を見せにいらっしゃい』って言ってました」
「それなら研修終わったら行こうかしら」
「そうして下さい」


さんが来ると西園寺さん、機嫌が良いですから。苦笑いを浮かべながらそう話す笠井に、も同じ表情で笑い返した。