そろそろ寝ようかと布団に潜り込んで、部屋の灯りを消そうと手を伸ばせば、カタンと部屋の隅で何かが鳴る音がした。立ち上がり、音のした方向を見渡す。良く良く見れば本棚に置いていた写真立てが床に転がっていた。床から拾うと薄っすらと埃が積もっていた。普段手入れをしていなかった事に気付き、傍に置いてあったティッシュボックスから数枚取り出して軽く拭く。完全に綺麗になった訳では無いが、それでも大分マシになっただろう。少し色褪せた写真には赤と青のラインの入ったユニフォームを着た10歳くらいの子供が2人映っている。髪型も今とそう変わっていないので1人は誰が見てもすぐに小学生の頃の俺、山口圭介だと気付くだろう。でも隣に並ぶ奴に関してはまず気が付く奴はいないと思う。髪こそ肩まで伸びているが、無造作に後ろで尻尾のように結び、顔には絆創膏を2つ貼っている。どう見ても写真の中の俺と同じ年頃の男の子にしか見えない。


「わからねぇだろうなぁ」


写真の中で俺と肩を組み、Vサインしている奴の名前は。俺の家のお隣に住む女の子であり、・・・・・・俺の好きな子だ。この頃は俺とサッカーばかりやっていて、良く男に間違われていた。俺と双子の兄弟だと思われた事だってある。もしが男だったらと思った事は数え切れないくらいある。この想いを自覚してからは女の子で良かったとつくづく思ったけれど。


今度、部屋を掃除する時に綺麗に磨いてやろう。写真立てを元の位置に戻すと、俺は再び布団に潜り込み、部屋の灯りを消した。睡魔はあっと言う間に訪れ、俺の意識は深く沈んで行った筈・・・・・・なのだが。








「おい、起きろ」


聞き慣れない声に俺の意識は引き上げられた。部屋の眩しさに目を瞑る。闇に慣れた目にこの明るさはただ痛く、反射的に両手で瞼を覆った。


「目が痛ぇ」
「遅刻するよりマシだろう?」
「あ?まぁ、そりゃあな」


ゆっくりと両手を下ろし、目が慣れたのを確認する。遅刻の言葉に呑気に同意した後、慌てて聞き慣れない声の主の居る方を振り向いた。


「おはよう」


まったく見覚えの無い男だった。それなのに俺の口からするりとそいつの名前が出て来る。


「おはよう、


その言葉を呟いた途端、瞬く間にこの男の情報が頭の中に入って来た。


こいつの名前は。俺と同じ日に生まれたお隣に住む家の一人息子だ。


「急げ、圭介。今日は余裕無いぞ」


コツコツとが指で左腕に嵌めた腕時計を叩く。慌てて枕元に置いた目覚ましを覗き込む。間の抜けた悲鳴が俺の口から飛び出した。


「早く着替えしろよ。じゃないと先に学校に行くからな」


からかう口調ではそう言うと部屋を出て行った。トントンと階段を降りる音が聞こえる。口ではああ言っているが、今日も時間ギリギリまでは待っていてくれるだろう。急いで身支度をして最後に学ランを羽織ると、鞄を片手に部屋を出た。







学校までの道をと2人並んで歩く。首元のボタンを1つ外してはいるが、それ以外は一分の隙も無く学ランを着こなしているに対し、俺はと言うと寝坊したお陰で寝癖が付いた髪に、学ランを羽織っただけなので中の赤いシャツ全開だった。傍から見ているとさぞ対称的な学生に見えるだろう。手櫛で髪を整えるだけ整えて、学ランをきちんと着る。鞄を持っていてくれたに礼を言って鞄を受け取れば、鞄と一緒にラップで包んだ白い物まで一緒に手渡して来た。過去に同じ経験があるので迷う事無くラップを剥ぐ。


「おおおおおお、、サンキュー!」
「どういたしまして」


少しだけ呆れ顔のだったが、気にせずに俺はラップの中身に齧り付いた。父さんの弁当を作るのに忙しい母さんの横でまた材料だけ貰って手早く作ったのだろう。お手製のたまごサンドとツナマヨサンドは咀嚼され、あっと言う間に腹の中に消えた。残されたラップを手で丸めていると、ひょいっと横からに奪われた。その鮮やかな動きに意味も無く闘志に火が付き、奪い返そうと手を伸ばす。すると伸ばした手に押し付けられたのはペットボトルだった。掌に感じるひんやりとした感覚。


「飲んでおけ」
「何から何まで悪いな!」
「そう思うならちゃんと睡眠時間を確保しろ。新しいゲームが入る度にこれでは先が思いやられる」
「これからは気をつける」
「それ、前に寝坊した時も聞いたぞ」


目を細め楽しそうに笑うに返す言葉が無かったので、貰ったお茶入りのペットボトルを勢い良くあおる。勢いが良過ぎて器官の方までお茶が入り、繰り返し咳き込んだ俺は再びの世話になるのだった。







学校が近付くにつれ、同じ制服を着た生徒の数も増えて行く。その中を俺とも歩くのだが、どうも落ち着かない。ここに来てやたら視線を感じるのだ。1つや2つの話では無い。いつもの事とは言え相変わらず慣れない。溜息と共に肩を竦ませば、同意するように隣からも息を吐く音がした。


「いつもながらこれだけは慣れないな」
「何かだんだん酷くなってないか?」
「俺もお前も彼女居ないからな」
「お前、作らないのか?」
「そんな暇無い」
「お前なら忙しくても上手くやりそうなんだけどな」
「仮に俺に彼女が出来たとしたら、お前の面倒を見る暇も無くなるという訳か」


別にそれくらい良いだろう。と俺は思ったものの、良く良く考えてみれば朝は時々起こして貰っている上、サンドウィッチやおにぎりといった携帯食まで作って貰っている。学校にいる間はわからない問題を教えて貰い、放課後は同じジュニアユース所属なので一緒に行動するのだが、ここでも何かと世話になっていた。考えれば考える程、多岐に渡ってには世話になっている訳で・・・。


「すいません。好きな子が出来るまで俺の面倒見て下さい」


我ながら恥ずかし過ぎる台詞だが、今、に見放される訳にはいかなかった。長年世話になり過ぎたお陰で、が居ないと学力その他諸々のレベルが一気に下がるのだ。それは依存と言うよりも寄生に近く、到底褒められた話では無いのだが、どっぷりと漬かり過ぎたので抜け出すにも時間が必要だった。


「わかってるよ。・・・って、失敗したな」


の承諾の言葉と共に湧き上がったのは周囲の女子の嬌声だった。きゃーとか、わーとか、いやーとかそんなの。いやーと言いつつも、嬉しそうに聞こえるのは何故なのだろう。周囲の変わり様にが失敗したと頬を右手の人差し指で軽く掻く。困った時のの癖だ。


「良くわからないけど、さっさと行こうぜ」


人の目も増えたとまでは言わなかったが、同じ気持ちだったのだろう。軽く走り出した俺の横を苦もせずが併走する。伊達にサッカーを続けて来た訳では無いのだ。先程と変わらぬテンポで今日の体育の授業がバスケなので楽しみだと言えば、数学の提出プリントの話を振られて思い出す。真っ白では無いが、最も苦手な教科なので空白部分が多い。教えてと頼み込めば、仕方ないなとが困ったように笑う。


すると、目の前が突然ガラリと変わった。


初めは教室だった。澱みなく数式を書きながら説明するの横で俺が頷いた途端、今度は練習場の更衣室に変わった。俺はユニフォームを着てと千裕の間に立っていて、次の遠征試合の話を聞いていた。話し終えた監督が解散と言った途端、また場面は変わり、今度はコンビニでアイスを選んでいた。これだと思った物を冷蔵庫から取ったら、また場面は変わって。


くるくると万華鏡のように場面は変わる。共通するのは俺の傍にが居る。その1点だけだ。くるくるくるくるくる。ようやく辿り着いた先は黒い空間。どこもかしこも黒いのに、スポットライトが当たったかのように俺と目の前に立つの姿がはっきりと見えた。




場面がこれだけ変則的に変わる様を見続けると、流石に俺でも気が付いた。これは『夢』だと。その終着地がこの空間なのだろうか。非現実な空間を見た後、俺はを見る。


困ったように、呆れたように、少しだけ意地悪く。僅かな差ではあったが、の笑顔が変わる。銀縁の眼鏡を掛けていてもわかる整った顔立ち。成績は学校でもトップクラスで、評判も良く、生徒会長の話を何度も持ち掛けられたけれど、多忙を理由に断って。9番を背負うとジュビロのユースチームや更に上のナショナルチームでも一緒に活躍して。時々寝坊した俺を朝起こして、同じクラスなので学校に居る間は殆ど一緒に居て、放課後になったら急いでクラブの練習に向かって、一緒にボールを追いかけて。サッカーの事、学校の事、家族の事、色んな事を話しながら暗い帰り道を共に歩いて。


同じ日に生まれたに俺は依存し切って。そんな俺をは笑って受け止めてくれて。本当の兄弟以上に仲の良い同じ道を歩く大事な相棒。これから大きな転機を迎えて道は分かれるかもしれないけれど、それでも繋がり続けた男。


。それはのもう1つの可能性だ。


もしも男として生まれていたならば、辿ったかもしれない1つの道。


「楽しかったよ、圭介」


またな、とが手を振る。きらきらと黄金色に光る無数の粒が今までを形成していたのだろうか。1粒、黒の空間に零れたと思ったらさらさらと流れ始めた。徐々にの姿は幾千に及ぶ粒に変わり、その姿は崩れ消えて行く。寂しいと思わなかったのはこれが俺の夢だと俺が自覚しているせいだろうか。


それとも。


そこで俺の意識はぶつりと電源が落ちたかのように途切れた。








聞き慣れた声が聞こえて、俺は瞼を開けた。遮光性は無いものの、カーテンがきつい外の光を柔らかいものに変えていた。闇に慣れた目がすぐに室内の明るさに慣れたので、ベットの横に立つ存在にもすぐに気付けた。


「おはよー、


目は慣れたものの、頭の奥がまだ重い。抜けない眠気はあんな夢を見たせいだろうか。


「おはよう。そろそろ起きて。遅刻するよ」


の声に俺は慌てて枕元の目覚まし時計を覗き込む。いつもよりは遅い時間だったが、まだ若干余裕があった。


「珍しいね。圭介が寝坊なんて」


珍しい物を見たといった顔でが笑う。早朝ジョギングを日課にしているので、こんな時間に起きるという事は休日でも滅多に無い。今日見た夢のせいだと言えば、どんな悪夢だったのとが聞き返した。にとって寝坊イコール悪夢なのだろう。


「いや、良い夢だったよ」


ベットから体を起こし、ゆっくりと全身を伸ばす。軽いストレッチを行う傍らでが興味深そうに夢の内容を聞いて来た。


「そうだな・・・」


一言に纏めるには難しい夢だった。ストレートにお前が男だったなどとに言って良いものか。少なくてもが俺が女になった夢を良い夢などと言われた日には、色んな物を喪失しそうだった。自信とか意欲とか気力とか、色々。


「お前が夢にずっと一緒に居た」


詳細は敢えて伏せてただ簡潔に語れば、ぽんと引火したかのようにの顔が真っ赤に染まった。その顔を見て俺の顔も同じように赤くなる。夢の中でずっと一緒に居られて良かったなんて、恥ずかし過ぎるだろう。


やってしまったと心の中で絶叫を上げる俺の脇をが通り過ぎて行く。


「早く着替えないとご飯食べる時間無くなるよ」


照れは隠せど動揺は隠し切れない声に、俺も同じような声で返事を返す。の前では男同士という事もあり、ずぼらな所も見せて来たが、の前ではあまり見っとも無い姿は見せたくなかった。惚れた男の意地という奴だ。きっと。



顔をきちんと洗って寝癖を直した後、学ランを着る。リビングに入れば食事中なのは父さんだけで、母さんは弁当を詰めており、は珈琲を貰って飲んでいた。父さんの正面の席に座る。皿の上に綺麗に盛られたサンドウィッチとサラダに俺は思わず笑みを浮かべて、両手合わせた。


「いただきます」








夢でも君に会えて良かった








多分もう出て来ないであろうくんについて
学校:磐田市立中学3年4組(生年月日順なので出席番号は圭介の1個前)
身長:175cm(圭介より若干高い)
所属部:書道部(圭介と同じ実質の帰宅部)
所属クラブ:ジュビロ磐田ジュニアユースチーム FW 9番(チームのエース)
装備:銀縁眼鏡、小説、革靴、運動部御用達エナメル鞄
属性:外見文学系少年、怒らせると誰よりも怖いタイプ