ドアの向こうは広いとは言い難い空間だった。
両壁に棚が並んでおり、整理はされているものの分類作業はされていないのだろう。プロジェクターの隣にレコードプレーヤーが置かれており、新旧ごちゃ混ぜの状態だ。物の多さも手伝ってすっきりした印象が感じられない。広さとしては8畳程度。その部屋の隅に大きな塊が見えた。その塊の正体に気付きながらも、俺、は気にせずに中に足を踏み入れた。
部屋の奥の左側、書類棚に近付く。薄い窓ガラスには蜘蛛の巣のような無数のヒビが入っており、中心に僅かながら穴が開いていた。ドアの方に戻り、電気を点ける。もうじき寿命なのだろう。蛍光灯特有の僅かな点滅を繰り返した後、窓から入る夕日で茜色だった部屋は、白い光で照らされた。床を見れば均等間に赤い点。ポケットティッシュを使って丁寧にそれらを拭くと、ヒビの入った棚の窓を外して、書類棚に落ちた小さなガラスの破片を1つ残らず拾った。
「それ、どうするんだよ?」
大きな塊がもぞりと動いた。視線が合うが、すぐに逸らされた。両足を抱えた座り方、所謂、体育座りをした高柳は、自らの膝に顔を埋めたまま俺の答えを待っていた。俺が隠すと言えば、再び顔を上げた。怪訝な顔で見上げるが、俺は気に留めずにそのまま作業に入った。
創立して50年以上。この部屋が出来て何年経つかわからないが、部屋に置かれた書類棚のうち、いくつかガムテープが貼られた物があった。何かの拍子にぶつけてヒビが入ったり、割れたのだろう。準備室と言う人目にあまり付かない場所だから、交換せずに補強だけで済ませているのが見て取れる。今回ヒビが入ったこの窓も同じ運命を辿ると簡単に予想がついた。
「木の葉を隠すなら森の中だからね」
準備室と言うだけあって、色々な機械道具が置かれている。その中にはさみやカッター、ビニールテープが収められているダンボールに手を伸ばす。予想通り、ガムテープを見つけた俺は、他の割れた窓ガラスと同じようにヒビの入った窓ガラスを補強すると、左側がガムテープだらけなのに対して右側は無傷と言う書類棚の窓ガラスを外した。代わりに先程補強したばかりの窓ガラスをはめ込む。はめ込まれた窓は違和感無く収まった。これなら余程気に留めている人間がいない限り、気付かないであろう。
「先生に報告しなくて良いのかよ」
「しない」
咎めるように呟いた高柳の言葉を切り捨てる。多少チャラチャラしているが、善悪の良し悪しはしっかりしているのだろう。罪悪感で良心が痛んでいるのかもしれない。高柳は眉を寄せて俺の行動を非難するような眼差しに変わった。
「ここで何があったか、全部洗い浚い話す気なの?」
「当たり前だ。俺はそれだけの事はしたんだから」
「菊池先生に全部話すの?君はそれで良いかもしれないけれど、さんはどうなるの?」
「どうって・・・?」
「話が周りに伝わったらどうするの?君はそれでも良いかもしれないけれど、さんをこれ以上傷つけるのは許さないよ」
そこまで言えば、高柳にもようやく理解出来たらしい。おそらくさんにどう償えば良いかで頭が一杯なのだろう。そうでなければ先生に話すなんて発想自体出て来ない。だけど、それは俺が許さない。
これ以上、身動きが取れない事がわかったのだろう。高柳は俺の顔を見上げて、どうすれば良いと聞いた。縋るような目だった。
「さんのためにも黙る事。誰にも言わない事。それが例え、先生だろうと・・・」
山口だろうと。最後に俺が一言付け加えると、高柳はビクリと体を震わせた。おそらく図星なんだろう。山口ならば間違いなく高柳の行動を非難する。もしかしたら激昂して殴りかかるかもしれない。そうする事でしか償えないと思っているのだろう。傷つけた分、自分も傷つく。なんて不器用なんだろう。
「償いたいならさんが落ち着いたら謝れば良い。何回でも何十回でも気が済むまで謝れば良いよ。それまでは誰にも知られないようにする事。それが今、君が出来る最善で唯一の償いだと俺は思うよ」
そう言って俺は残った無傷の窓ガラスを奥の左側の書類棚にはめ込んだ。同じ種類だったので、ぴったり合ったが、窓の傍と言う事もあって多少書類棚自体色褪せており、注意深く見ると色が違うのだがこの程度なら問題ないだろう。
「そろそろ帰ろう。校門が閉まる」
時計を見れば最終下校時間まで残り30分と迫っていた。力無く座り込む高柳の腕を掴み、問答無用で引っ張る。準備室を出た所で腕を放せば、歩みは遅いものの高柳はゆっくりと教室に向かって歩き始めた。
別にどちらかが言い出した訳でも無いし、意識した訳でも無いが、同じタイミングで教室、下駄箱前まで一緒で、靴を履きながら高柳の家を聞いてみたら途中まで一緒なので、じゃあ帰るかと言えば、特に向こうも異存も無いらしく、行くかと返事があったのでそのまま昇降口を抜けた。
その時は予想すらしてなかった。思い返せばパーツは揃っていたから、組み合わせ次第では起こり得る事ではあったけれど、それでも俺の予想を大きく超えて、もう1つの事件が起こるなんて、この段階ではまったく考えてなかった。