階段を1階分降りれば、保健室のプレートが見えた。そこだけぽつんと明かりが点いていて、まだ中に人がいる事に安堵する。


私、は、保健室のドアを開けた。失礼します、と一言。振り返った保健医のお姉さんと呼べる年齢の先生とはそれほど顔を合わせて居る訳では無いけれど、私との顔を覚えていてたみたいで、柔らかい笑みを浮かべて迎い入れてくれた。


「もうすぐ最終下校時刻だけど、どうしたの?」
が手を切っちゃいまして」
「まぁ」


質問に私が代わりに答えると、先生は私の後ろに立つの傍まで歩むと、ハンカチが巻かれたその手を取った。

「ちょっと傷口を見せてね」

そう言ってハンカチの結び目を解く。解かれたハンカチには血が滲んでいて、どれだけ血が流れたのか想像してしまい、思わず顔を顰めた。

「何で切ったの?」
「ガラスです」
「コップ、落としてしまって」


今まで俯いたままのが、私の後にそう言葉を継ぎ足した。


に・・・一体何があったんだろう。


視聴覚準備室にコップなんてある訳がないし、仮に本当にコップが割れただけならば、はここまで落ち込みはしないだろう。心配だ。何があったのか聞きたいけれど、今のはとても喋れる状態ではない。・・・くんなら、を私に託して視聴覚準備室前に留まった彼なら、何かそこで掴んでくれている筈だ。


「そう。ガラスの扱いには気を付けないと、ね」


そう言って先生は笑った。含みを持った笑みで。


やっぱりばれるか・・・。相手は私達よりも十は年上の大人で、保健の先生だ。私やの態度で嘘だとわかったのだろう。わかっていながらも私達の気持ちを汲んでくれた事が・・・嬉しい。


ありがとうございます。


言葉には決して出来ないけれど、感謝の気持ちを眼差しに込める。すると目が合い、ふっと微笑まれた。


綺麗で、余裕があって、それでいて十も年下の私達の気持ちを理解してくれる素敵な人。将来、こんな女性になりたい。の治療が終わるまで、私は不覚にもこの綺麗な保健の先生に見惚れてしまった。







治療が終わり、保健室を出ると、廊下が明るくなっていた。いつの間にか蛍光灯が点けられたようだ。薄暗かった廊下は煌々と照らされ、窓から覗ける空はすっかり藍色に変わっていた。自然と足は教室に向けられるが、ふと隣に人の気配が感じられなくなり、振り向くと数歩後ろでが気不味そうな表情で佇んでいた。


・・・?」


呼び掛けると一旦口を開くものの、は何も言わずに俯いてしまった。1年生の時からの付き合いだけど、初めて見る姿だ。昨日よりも落ち込み具合が酷い。


、行こう」


私の問いには俯いたまま、ふるふると顔を横に振った。子供のようなその姿に、自然と扱いもそう変わる。


「教室行きたくない?」


こくり。が1度だけ頷く。


「荷物は鞄だけ?」


こくり。再び頷く。


「持って来るからここで待っててくれる?」


こくこく。数度頷く。本当、子供みたいだ。不謹慎だけど、のその姿に思わず笑みがこぼれる。


「じゃあ、行って来るね」


を南校舎と北校舎を繋ぐ2階の連絡通路に残して、教室へと急ぐ。教室には時田さんが1人ぽつんと残っていた。


「あれ?時田さん、帰らないの?」
「帰りたいんだけどねー」


まだ、やる事終わってないから。そう言って彼女は苦笑いを浮かべた。片付けは終わったように見えるのだが、何がまだ残っているのだろう。聞けば、時田さんは衣装を全部回収して、高柳くんに渡さないと帰れないらしい。しかし、まだ当の高柳くんを始め、数名まだ戻って来ていないようだ。その中にの名前も入っていて、先程までの服装を思い出し、慌てて2人分の鞄を抱えると、時田さんにの分持って来ると告げて来た道を走った。




再び戻った時、時田さんの机の荷物が増えていた。先程山口くんの分を回収出来たらしい。しかし、当の山口くんの姿は無く、席にも鞄が残っていなかった。の鞄が無い事に気付いて先に帰ってしまったのだろうか。行き違いになってしまった事に失敗したと少しだけ後悔する。今からでも間に合うだろうか。教室を出て、と再び合流し、山口くんが帰った事を告げるものの、その反応は予想外のもので、はその言葉に硬い表情を少しだけ緩ませた。


をここまで落ち込ませる事が出来る人物。真っ先に思い浮かぶのはの幼馴染であり、想い人の山口くんだが、山口くんならに怪我を負わせないし、万が一、負わせたとしてもに付き添って保健室に行っている筈だ。山口くんはこの段階で除外されるが、そうなると山口くんが帰った事にが安堵する意味がわからなくなってしまう。


山口くんに知られたくない事件。


そう考えるのが自然だろう。残念ながら今の私にわかるのはここまでだ。


最終下校を告げるチャイムが鳴り響く。用も無く校内にいるだけで怒られる時間帯に入った。靴を履き替えて、昇降口を出る。目の前の細く長い階段を降りれば、もう校外だ。砂利道を踏む音。ゆっくりとした足取りでもやって来る。


「帰ろう」


笑顔で笑い掛ければ、もぎこちないものの笑顔を浮かべた。







突然、背後で砂利道を激しく踏む音がした。ザッザッザッ。誰かが駆ける音がする。私達の目の前の石畳の階段は、2人横に並べば行く先を塞いでしまう程、狭い。


誰か帰りを急いでいるのか。慌てて振り返り、道を空けようとしたのだが、後ろにいたのは―――。


の背中に容赦無い力を込めた腕が伸ばされる。
音も無くの体は弾かれた。
驚愕で引き攣った顔。
悲鳴をあげて落ちて。


スローモーションが掛かったように目視出来たのに、私の体はしばらくの間、まったく動かなかった。突然起きた事に対する恐怖が私を縛り付けたのだろう。目の前で起きた理不尽な光景に怒りが湧き上がり、ブツブツと斜め後ろで不穏な言葉を呟く犯人に、思わず手が出た。


「あんた、何するのよ!!」


バシン、と頬を打つ音。手加減無しで打ったので、犯人がよろめき膝を付く。打った時の衝撃で私の手もビリビリと痺れたように痛んだ。叩かれた犯人が頬を押さえてギラギラとした目を向けるが、目を逸らさずに私も睨み返した。


この人がを落とした!
の背中を押したんだ!
の背中を押して落としたんだ!!


そこで私は我に返る。


はどうなった・・・?


さぁーっと血の引く音がした。背筋が寒い。見るのが怖い。カタカタと震える体を腕に力を込めて抱き締め、慌てて私は先の見えない階段を下りた。


何でこの階段、こんなに段があるのよ!


その事をただ恨みながら。