背中から感じた衝撃。


あ、今、誰かに背中押されたと思った時には、私の足は石畳の上に無かった。私の体は一気に下に転げ落ちて行く。踏み止まる事も出来ず、不恰好なダンスのステップを踏むように、私の縺れた足はバタバタと階段を踏み鳴らした。







突然の衝撃に胃の辺りが圧迫され、すぐには言葉を吐き出す事も出来なかった。それでも私を見下ろす双眸が心配そうに歪められるので、半ば無理やり声を出した。


「助かりました」


口の中に広がる酸味と腹部に感じる痛み。顔は意思とは逆に顰め面になるばかりで、取り繕うと考える余裕はあっても実行する程の余裕はなくて、口元を手で覆う。


「落ち着くまで無理しなくていいから」


飾り気の無い朴訥な響きが降って来る。背中に手が添えられた時には最初肌が粟立ったが、優しく胃や肺の辺りを擦られれば、気分が落ち着いて行くのと同時に粟立った肌もゆっくりと元に戻って行った。


「転んだ・・・ようには見えないけれど」


そう言って彼は私の顔を覗き込んだ後、上に続く階段を見る。不審そうな表情で見上げた先に人影。だ。


!!」


慌てて降りて来たは、真っ先に私に怪我が無い事を確認した。気持ち悪さも痛みも大分和らぎ、大丈夫だと告げれば、は安堵の息を吐く。しかし、何かを思い出したのか、途端に表情を険しいものに変えた。


「そうだ、あの子!!」


見て来ると言い残し、は階段を駆け上がっていた。おそらく私には見えなかった犯人を、は目撃したのだろう。


一体、誰が何の為に私を落としたのだろう?


湧き上がった疑問。目を逸らす事を許さないと言わんばかりに脳裏に張り付く。状況から考えても事故では無く、意図的だ。誰かの恨みを買った覚えは無いが、無意識に人の恨みをどこかできっと買ってしまったのだろう。突き落とされた事よりも、突き落とされるくらい大きな恨みを買った事の方がショックだった。でも、それは私が無傷で済んだからなのだろう。たまたま下に立っていた彼に受け止めて貰わなければどうなっていた事か。細い階段の左側面のコンクリート剥き出しの壁に激しく叩き付けられたか、それとも右側面のガードレールを飛び越えて下に落下してしまったか、それとも正面の車道に飛び出してしまったか。どちらにせよ怪我は免れず、下手をすれば大怪我を負っていたかもしれない。自分の想像にぞくりと背筋に寒いものが走った。




上が急に騒がしくなり始めた。甲高い叫び声はのものだろう。時折、宥めている声が混じる。そちらにも聞き覚えがあった。くんの声だ。


私も行かなくては。心配そうに見上げる彼にもう大丈夫だと告げて階段を上ろうと足を動かすと、腰が急に重くなり、すとんと石畳の下に座り込む羽目になった。


「え?えええ??」


いくら腰を上げようとしても上がらない。まるで操り糸が切れてしまった人形のように、だらりと力無く足は投げ出されたまま。立ち上がろうと力を入れてもゆるりと力がどこかに抜けて行く。穴の開いた浮き輪のようだと思っていると、呼ばれて顔を上げる。見上げた先には少しだけ苦笑いを浮かべた顔。


「あ、腰が抜けちゃった?」


問う彼の言葉でようやく自分の状況が正しく理解出来た。こんな風になる事自体初めてだったので、その言葉になかなか辿り着けなかったのだ。


「そう、みたいです」


ここに来てようやく今の状況を恥じる余裕が出て来たのか、羞恥で全身、特に顔に熱を帯び始めた。肯定した私に対し、彼は大して気にした素振りも見せずに手を差し出すが、完全に腰が抜けてしまい、立ち上がるには彼にしがみ付くしかなく、恥ずかしさと申し訳なさで一杯でやんわりと断ったのだが、の叫び声がここからでもエスカレートして行くのがわかって、深々と頭を下げて彼の腕を借りる事にしたのだった。




最初は名前も知らない同年代の男の子にしがみ付く形で歩いているから、恥ずかしくて、それで息苦しさを感じていたのだと思っていた。ゆっくりと階段を1段1段上って行く間に、色んな事に気付いた。



私はこの先、何が待っているのか見るのが怖い。


じわじわと恐怖が私の中に染み渡るように広がる。歯の奥を食い縛らなければ、カタカタと鳴ってしまいそうな程。体に出来る限り力を込めなければ震えてしまう程、・・・怖い。


時間が経つ事で私は表面上はいつもと変わらないように見えるが、頭の中は徐々に混乱して、ぐるぐると回り始めていた。嫌な予感ばかりが頭を過ぎ、怖い怖いと心で叫ぶ。次第にそれはつい1時間前ほど前に起こった高柳くんとの一件とも繋がり合い、大丈夫だと自分に何度も言い聞かせても恐怖心の方が大きくなって行った。


「                              !!」


階段の上に辿り着いた時、何かを言われた気がする。何と言われたのか、どんな意味合いで言われたのか、理解した瞬間、私の目から何かが滲み、私は考える事を止めた。




それ以降、何も感じない。ただ、白い、だけ。