「                              !!」


それは聞くに堪えない言葉だった。




金切り声。普段の彼女からは想像できない声に驚き確認するが、それは間違いなく彼女―――千葉香苗のものだった。激昂し顔を赤くして叫ぶ。その先に居るのは見慣れた顔の男とさんだ。傷付いたように顔を歪めるが、それも少しの間で、しばらくしてさんの顔から感情が消えた。悲しみ、哀しみ、憎しみ、恨み。何も無い。ぼんやりとこちらに目が向いているのに、視線が交わる事が無い。虚無の表情を浮かべるその顔の頬に光るものが流れた。


「ちょっとアンタ、何、筋違いな事言ってるのよ!」
「私の気持ちなんて貴方にわからないでしょう?!」
「わからないけど、言って良い事と悪い事はわかるわよ!」


今にも掴みかかりそうな勢いで怒鳴るさん。本当に掴みかかる前に制止するつもりでさんの動向を窺っていれば、低い男の声が2人の間に割って入った。


「や、山口くん・・・?」


信じられないものを見たといった顔で千葉さんが大きく目を見開いた。何事かとさんも振り返るが、振り返った途端に顔を引き攣らせ息を飲んだ。腹の底から吐き出したような、低い声だった。怒りの沸点が高い山口が怒った。眠れる獅子を起こしたようなものだ。冷ややかな眼差しが千葉さんに注がれる。耐え切れずに千葉さんは山口の名前を呼ぶが、火に油を注ぐ真似でしかなかった。


「煩い。黙ってって俺言わなかった?」


殆ど瞬きもしない黒い感情の消えた目が千葉さんを貫く。好意を持った相手からこんな目で見られて耐えられる筈も無く、千葉さんは砂利の敷かれた地面に膝から座り込むように崩れ落ちると、そのまま声を殺すような泣き方を始めた。興味を失ったのか、山口は千葉さんから視線を外すと、早足でさんの下に歩み寄った。顔を覗き込んだ後、その名前を呼んだ。


」と。


先程の冷ややかさが嘘のような温かみの感じられる声音だったが、さんの精神はかなり遠くまで飛んで行ってしまったようで、何の反応も示さなかった。少しだけ柔らかさを取り戻した表情がまた硬く凍えたものに変わる。じろりとさんを支える男、俺の顔見知りの男を見る。その視線の鋭さに大抵の者なら怯えてしまうだろうが、色々と経験の深い彼は何の動揺も見せず、人の良さそうな顔で「君の彼女?」と尋ねた。


「違う」


山口はあっさりと否定した。


「でも、何よりも大事だ」


いつもとは比べ物にならない程、素直に山口は自分の気持ちを吐露した。


「そう」


彼は俺の方を見て、目で大丈夫かと問い掛ける。俺が1度頷けば、彼は支えていたさんを山口にそのまま引き渡した。大事そうにその身を支える。その光景を見て、俺は自分のすべき事を把握した。


「山口、ここは俺に任せて。さんを頼む」


この場で1番事情を知っているのは、間違いなく俺だ。多少情報不足な部分もあるが、そこは当事者に聞けば良いだろう。山口はまるで他の事などどうでも良いという無関心さを出しながらも「頼む」と短く答えた。さんの鞄と自分の鞄を片腕に通し、体育祭の時と同じようにさんを抱き上げた。されるがままのさんの顔は変わらず痛々しいままだった。


「ごめんね。彼氏。流石に可哀想で見てられないわ」


そう言ったのは先程までさんを支えていた彼。被っていた黒のサマーニットキャップをさんに前のめりに深く被せて、その表情の殆どを隠した。山口は「ども」と軽く礼だけ言うと、周囲を気にする事無く階段を下りこの場を去った。


「さてと、とりあえず」


山口の姿が豆粒くらいまで遠のいた頃、俺はどうしようもなく佇んだままのクラスメートを1人1人眺めた後、互いの意識を一度自分に向けるために話を切り出した。千葉さん以外が顔をこちらに向ける。千葉さんは時間が掛かりそうなので落ち着くまでこのままにしておこう。自業自得としか良い様が無かったので、優しくしようという気持ちすら湧き上がって来なかった。


「まずはさんの為にも今回の件は彼女が落ち着くまで黙っている事。どうしてこうなったか把握する為にも、千葉さん、後で喋って貰うよ」


俺の言葉に泣きながらも千葉さんは顔を伏せたまま頷いて見せた。


「時田さん、ごめん。巻き込まれついでに2つお願いしても良いかな?」
「えっと・・・何かしら?」
「1つ目は俺が千葉さんから事情を聞く時、同席して欲しいんだ」
「・・・わかったわ」


男と女2人きりで話し合うと後々問題になる事もある。さんはさんの味方なので無理だが、時田さんなら適任だ。千葉さんとは女子のグループが違うし、性格上、アンフェアな事はしないだろう。口も堅い方なので目撃者が彼女で良かったと正直思っている。


「2つ目は、流石にこの時間にこの状態の彼女を1人で帰らせる訳には行かないから、途中までで良いから付き合って貰えない?」
「構わないわ。彼女と私、小学校が同じで家もそう遠くないから」
「それなら俺も付き合うよ」


今まで黙っていた高柳が送迎の役を買って出てくれた。どうするかと悩む前に「そうね。高柳くんも同じ小学校だから」と時田さんから賛同の言葉が上がった。


「それじゃあ、さんは俺が送って行くよ」
「え?」
「それとも鈴木を呼ぶ?さんの件は黙っていて欲しいけれど」
「鈴木くんを呼んでみるわ」
「そう。それじゃあ、鈴木が来るまでここにいるね」


携帯を弄り出すさんにそう告げると、視界の隅で時田さんと高柳に促され、立ち上がる千葉さんの姿が見えた。鞄からペンとメモを数枚取り出し、書き殴る。


「これ、俺の番号とアドレス。何かあったら連絡して」


そう言って帰ろうとする3人に手渡す。高柳と時田さんは受け取り、千葉さんは俯いたままだったので代わりに時田さんが受け取った。帰る途中、折を見て渡してくれるだろう。


「それじゃあ、また後で」


帰る3人にそう言葉を掛ける。また後で、なのだ。この問題は1つとして何も解決していないのだから。じゃらじゃらと砂利を踏む音が徐々に遠ざかる。ぼんやりと3人の後姿を眺めていれば、隣からふと声を掛けられた。


「良かったの?あれで?」
「現状、今日はこれ以上何も出来ないよ。千葉さんには冷静に自分がした事を受け止めて貰わないと、話を聞いても自己弁護で終わりそうだからね」
「それじゃあ、仕方無い」
「それよりも巻き込んで悪かったね」
「べつにー?の為だし」
「そう言ってくれると助かるよ、秀二くん」


俺の言葉に顔見知りこと、同じ年の親戚である中西秀二はニコリと笑った。抱えた問題が解決するまで、俺は心から笑う事は出来ないだろう。だからこそ彼の笑みに少しだけ心が洗われた気がした。