SIDE 山口圭介


その夜、は熱を出した。おじさんが言ったように、傷が原因の発熱なのだろう。


「けーちゃん、けーちゃん、どこ?」
「ここにいるよ」


幼い頃の呼び名でが俺を呼ぶ。睡眠中に幼児期に退化したようなうわ言を繰り返すのは、嘗て無い程、精神が不安定だからだろう。左手での手を握り、右手で頭を撫でる。子供にするようにをあやす。




「おばさん達に何て言えば良いんだ??」


悲哀交じりの独り言が思わず口から零れた。




あやしたまでは良かった。うわ言もピタリと治まり、顔は赤いもののの寝顔は先程よりもやや穏やかな物になっていた。そこまでは良かった。問題は・・・今の俺の状況にある。


ぴったりと隙間無く俺の首筋に顔を埋めるようにして寝ているのは、である。何故、こんな事になったかと言えば、最初は手を握っていたのだけだった。それがあやしている途中、突然、ぎゅっとが俺に抱き着いて来たのだ。犬とか猫と言ったペットなら問題無いのだが、幼馴染と言う慣れ親しんだ存在とは言え、女の子。しかも目下、俺の好きな子ともなれば、今の俺の心の叫びがどんな物かわかるかと思う。


(ちょっとそんなにぴったりくっつくな!)
(む、胸が腕に当たって!)
(こいつ、着痩せするタイプか!!)
(柔らけぇ!柔らけぇよ!)
(落ち着け、こんな時は素数を数えるんだ!)


・・・・・・・・・俺だって男なんだよ。これくらいは考えてしまうんだよ。考えるだけだから!これ以上、別に何かする訳じゃないから、この辺は多めに見て欲しい!!


男の悲しい性だよな・・・。




結局、俺が多少1人で動揺する場面もあったが、の状態が落ち着いて気が抜けた反動もあって、そのまま俺も眠りに落ちて行った。








「何か良い事でもあったの?」
「あ?」
「顔、緩んでる」
「っと」


文化祭が終わって2日後。振替休日最終日、俺の携帯にからメールが入った。


『事情聴取が終わった。学校が始まる前に1度話がしたい』


用件のみ綴られたメールに俺はすぐに会いたいと送り返した。1時間後、と以前来た事のある公園に俺はやって来た。振替休日と言う名の平日、公園にはの姿はおろか人の姿は見えなかった。通行止めの黄色のペンキの塗られたバーに腰掛け、やる事も無く携帯を弄っていれば、しばらくしてもやって来た。の今の状況――少し落ち着いたものの、発熱のせいで殆ど寝てばかりだと告げれば、は怪訝な顔をして見せた。顔が緩んでいる。そう指摘されて、俺は慌てて表情を引き締める。手遅れだとしても緩んだ顔のまま続けて話す内容では無い。


(そうか。俺、今、笑っていたんだ)


指摘され驚きはしたが、ショックでは無かった。


から話を聞く前にの状況を話しておくよ。・・・今もは寝て起きての繰り返しで、現実と夢の世界を行ったり来たりしているから色んな記憶があやふやになっている状態なんだけど・・・文化祭以降の記憶だけがまったく無い」
「は?!」


俺の言葉はまったくの予想外だったようで、は目を数度瞬きを繰り返した後、顔を顰めて考える素振りを見せた。


「文化祭以降の記憶が無い?」
「ああ。今朝、目覚めた時に『今日は文化祭初日だから早く学校に行かなきゃ』って言ったんだ。おかしいと思って聞いてみたけれど・・・最後の記憶が文化祭前日の夜、布団に入った所までだった。それ以降はまったく覚えていない。携帯電話で今日の日付を見て、も混乱していた。数日分の記憶がまったく無いからな。『思い出さなきゃいけないのに、思い出したくない』『何を忘れているのかもわからないのに、思い出すのが怖い』怯えながらはそう言ってたよ」
「心的外傷後ストレス障害の可能性が高いな」
「わからない。おじさん、の父さんは医者だけど、専門は外科だから詳しくは精神科医に見て貰わないとはっきりした事は言えないと言っていたけれど、心に負った傷が原因で記憶が無くなる症状だって言っていた」


元から何でも知っている奴と言う印象はあったけれど、何故、もおじさんと同じ病名が言えるんだろう。俺もと同じだけの知識があったら、俺ももっとの力になれるのに。


そんなどうしようもない事を思ってしまう。



「あれだけの事が1度に起きたんだ。確かにそうなっても不思議は無い。不思議は無いけど・・・何だろうね。山口から話を聞くまでさんがそうなってしまうなんて思いつきもしなかったよ。」
「俺もずっと忘れてた」
「山口?」
は昔から何も言わずにストレスを溜め込むんだ。それで一時期、良く病院に運ばれていたんだ。忘れていたよ。あいつは喋らない代わりに、何かあると俺に良く引っ付いて落ち着くまで離れなかったんだ」
「そっか。・・・忘れてしまった方が幸せかもしれないね」


ぽつりとが複雑な表情で呟いた。事情聴取――を突き落とした件に関して聞き取りを行ったは、今の俺よりの身に降り掛かった事件を把握しているだろう。もしかしたらの手の傷の件についても知っているかもしれない。事情を知っているのその言葉は酷く重く感じられた。


「山口も忘れた方が良いと思ってる?」
「ああ」


だからこそ俺はさっき無意識に笑っていたんだろう。記憶を無くして悲しい事など忘れてしまった方が良いと思ったのだから。


「折角、さんとの仲も進展したのに。大切な事を伝えていても、それもさんは忘れちゃうって事だよ」


大切な事。の言葉で思い出す。




「俺、ずっとお前と一緒に居たい」
「今日、文化祭が終わったら言うよ。それまで待ってて」


文化祭2日目の朝、俺はにそう伝えたんだ。本当ならに告白するつもりだったんだ。それがが突き落とされ、心に深い傷を負って記憶を失ってその機会を逃していた。


「・・・果たせそうにない」
「何か約束でもしたの?」
「ああ、大事な・・・約束を」


の失った記憶。その中には俺との約束も含まれていた。あの時のとの約束は果たせないだろう。欠片でも記憶の断片をに与えたら、思い出すかもしれないのだから。忘れて欲しくなかった。とようやく向き合い、やっと想いを告げると決意し、約束したのだから。だけど、間違いなく忘れてしまった方が良いのだろう。何よりも心が壊されて、人形のように何の感情も映さないを俺自身もう見たくなかった。


「良いんだ。が傷付く姿をもう見たくない」
「そっか」


結論を出した俺に、は困った顔で笑って見せた。


「山口。今から言うのは・・・・・・俺からのお願いなんだけど」
「お願い?」
さんと大事な約束をして、それが記憶喪失前のさんとしか果たせそうにないのなら、記憶を失った今のさんとまた別の大事な約束をして、それを果たして欲しい」
「どういう意味だ?」
「言葉のままだよ。さんはきっとその約束が果たされるのを楽しみにしていたに違いないからね。俺としては例え記憶が無くなって約束自体さんが忘れても、約束は果たされるべきだと思うんだ。でも、山口はさんの事を考えて敢えて約束を果たさないと言うなら、俺も諦めるしか無い。けれどそれなら、代わりに別の約束をしてそれを果たして欲しい。さんには少しでも幸せになって欲しいから」
「ああ、どんな約束になるかわからないけど、そうするよ」


真面目に頷き返せば、の目には先程とは打って変わって隙の無い物に変わっていた。纏う空気も先程よりも張り詰め、思わず俺も表情を引き締め直す。


「まず最初に2つ言っておくよ。まず1つ目は俺が知っているのは『さんが突き落とされた件』と『さんが手を切った件』の2つ。・・・本当は後の件は存在自体隠しておきたかったけれど、さんの状態が状態だから俺から伝えておくよ。記憶を失う前のさんがその件に関して黙っていて欲しいと俺に望んだんだ。だからこの件に関して俺は何も言う事が出来ない。さんの意思を尊重したいからね」
「・・・・・・わかった」


不承不承ではあったがその言葉に俺は頷いた。本当はの身に起きた事、全てを把握しておきたかった。他の男が知っていて俺が知らない事に嫉んでしまいそうだった。けれどそれが記憶を失う前のの意思なら従おうと思う。


「2つ目は今から事情聴取を含めた、さんに口止めされた以外の話をするよ。俺も本で読んで得た知識程度しかわかっていないけれど、記憶喪失は一時的なものかもしれないし、逆に一生戻らないかもしれない。もし一時的なもので再びさんの記憶が戻ったら、さんを支えて欲しい。その為に・・・俺の我侭で全ては話せないけれど、さんに何が起きたのか覚えていて欲しいんだ」
「ああ」


の代わりに覚えておこう。どんなに酷い目にあったのか。どれくらい心を傷付けられたのか。が忘れた代わりに俺が覚えておこう。が忘れても俺が覚えている。が加害者である彼女を許しても・・・俺はきっと許しはしないだろう。


伝える筈の恋心は消えずに、ずっと胸の中で伝えられなかった事を切なく泣いているのだから。