SIDE 


最初に目覚めた時には何の違和感も感じていなかった。ただベット脇の時計の短針が8時を回っており、窓から差す明かりに一瞬頭が真っ白になった。完全な遅刻だ。


布団から飛び起きた瞬間、足元がふらつき、そのまま床に倒れた。倒れた音に気付いた圭介がドアを乱暴に開けて部屋に入って来た。


、大丈夫か!」
「ごめん、ちょっと慌てて。それよりも学校遅刻しちゃう!」
「心配するな。今は振替休日中で学校は休みだ」
「え?だって・・・」


昨日は金曜日だった。翌日からの文化祭に必要な物を鞄の中に詰め込んでから、眠りについた記憶だって残っている。それなのに携帯電話の表示は火曜日。


一体、どういう事だ?


土曜日、日曜日、月曜日の記憶が一切無い。1番真新しい記憶は、金曜日の夜、布団に入って部屋の明かりを消した所だ。何をしたのか、誰と会ったのか、何を食べたのか。何1つ覚えていない自分に寒気を覚える。神経を集中して記憶を手繰り寄せようとするが、その瞬間にざわりと肌が粟立った。何も覚えていないのに、何故、私は怯えているのだろう。恐怖で歯の根が合わない。


。思い出さなくて良いから」


気が付けばすっぽりと包まれて圭介の腕の中に居た。恐怖で強張っていた体は別の意味で硬直する。


「あ、あ、あ、け、けいすけ?」


照れも恥じらいも見せずに圭介は私を抱き締めた。慌てふためく私を見てもその態度は変わらず、宥めるように髪を撫でていた。


私の知らない3日間の間に何かあったのは間違いない。少なくても圭介の態度が変わる何かが。圭介にこんな風にして貰えるのは恥ずかしくも嬉しくもあるが、きっと失われた3日間には悲しい事が起こったのではないかと思う。そうでなければ心の中にぽっかりと穴が開いたような虚無感や恐怖感の説明が付かない。


圭介が私に優しいのは、罪悪感からなのだろうか?


わからない。考えが上手く纏まらない。どうしてこう心が乱れるのだろう。どうして涙が出て来るのだろう。何を失ったのか覚えていないのに、どうして?


疑問だけが頭の中を埋め尽くして行く。その答えをいくら探しても、頭の中のどこにも転がっていなかった。






私が自宅の階段から落ちてから早半月。記憶の混乱と数日分の喪失の為、私は精神科医の所に通っていたが、この所は混乱も喪失による虚無感も無かったので、しばらくは大丈夫だろうと医者から通院しなくても良いと言われた。心と言うのは非常に複雑で、いつ何が原因で再発するかわからない。だから何かあったらまた来なさいと微笑む先生に頭を下げると、待合室に戻った。


ドアが開く音に反応して、圭介が教科書から顔を上げる。今日はサッカーの練習が無かったので、私の付き添いに一緒に来ていたのだ。圭介の隣の椅子に座って少しの間雑談をしていると、しばらくして受付窓口のお姉さんに呼ばれた。会計を済ませると、圭介は既にスリッパから靴に履き替えていた。私もそれに続いて自動ドアから外へと出る。


学校が終わった後の通院だったので、外に出た時には太陽は落ちかけていた。10月に入って太陽が落ちる間隔が夏に比べると大分短くなった。薄い藍色の空を見上げれば、左手を掴まれる感触。


「早く帰ろうぜ」


右手で私の手を掴んだ圭介が歩き出す。つられて私もそのまま歩き出した。


圭介の1歩後ろを歩きながら記憶を失う前との違いを考える。以前は決して手を繋いで歩いたりしなかったし、歩道側を圭介が常に歩く事も無かった。今の圭介は私に対して過保護だ。時間さえ許せば私の傍に居る。


帰宅ラッシュの時間帯。混雑した車道の横を無言で歩く。車のエンジン音や排気音。人のざわめき、足音。色んな音に包まれながら自宅を目指せば、繁華街から住宅街に入り、徐々にその音は小さくなって行った。


「圭介」
「何だ?」
「もう通院しなくて良いって」
「そっか。良かったな」
「うん」


振り返った圭介が穏やかに笑う。以前の圭介ならばもう少し快活に笑った筈だ。以前に比べると大人っぽくなった気がするのは、その笑顔のせいだろうか。


「もう私は大丈夫だから。心配しないで」
?」
「このまま罪悪感に囚われないで」


穏やかに笑ったまま、圭介は時々眉を顰める時がある。それは大抵私の記憶絡みの話が出た時だ。


自宅の階段から落ちたなんて最初から信じてなかった。仮に圭介がぶつかって来て、その衝撃でが階段から落ちたとしたら、圭介は私を見る度に申し訳なさそうな顔しかしないだろう。こんな風に穏やかに笑う事は出来ない筈だ。私の落下に圭介は直接は関わっていない。けれどまったくの無関係でも無いから、それを思い出して顔を顰めているのかもしれない。全ては可能性の話で、私はこのまま自分が階段から落ちたという話を受け入れて行くから、今後も誰かに確認する事もないだろう。だけど、圭介がこのまま罪悪感で私に過剰なまでに優しくするのは放って置けない。圭介がずっと傍に居てくれるのは幸せだけど、私だけの片思いなどゴメンだ。


「お前、思い出したのか?」


大きく目を見開いた圭介に私は無言で首を横に振る。私の反応に圭介がほっと安堵の息を吐くのを見逃さなかった。


おそらく圭介は私の記憶が戻らない方が良いと思っている。私にはいつか戻るからと言っているけれど、圭介の本音はその真逆だ。15年の間、圭介は私の味方だった。それは今も変わらない。
確信を持ってそう答えられるし、万が一違っていてもそれでも私は何度でも同じ答えで返すと思う。私が記憶を思い出せば、きっと私にとって良くない事まで思い出してしまうのだろう。それ故の過保護さなのかもしれない。


「罪悪感か。・・・言われてみればそうだな。罪悪感が無い訳でも無いな」


圭介の歩みが止まる。私も足を止めれば、圭介が覗き込むように私の顔を見た。その距離は意識する程、近い。


「例え罪悪感があっても無くても、俺は多分今と同じ行動を取ると思う。そういうの関係無しに俺が好きでやっている事だから。が迷惑だと思うなら止めるけれど・・・」


その先を言う前に私は首を横に振った。「そっか」と言って嬉しそうに圭介は笑う。


「圭介。ちょっと手を離して」
「おう」


少しだけ名残惜しそうに圭介は私の手を離した。手を繋ぐと言っても手首やその付近を掴んでいるので、意味合い的には腕を掴むと言った方が正しい状況だった。


圭介の右手を掴むとその指を自分の指に絡ませる。鈍いと自他共に認めている私だって、その意味がわからない程、鈍いつもりは無い。


「帰ろう」


意味をわかってやっているのでその分恥ずかしい。お互いの顔色がわかりにくい程、空は暗くなっているが、それでも今、圭介を正面から見る勇気は無かった。


「ああ、帰るか」


圭介が手を引き、一緒に歩き出す。今度は後ろを歩かず、隣を歩いた。恥ずかしさで顔は見る事は出来ないけれど、先程よりも強く感じる指の力に受け入れられた事を感じた。軽く握られるので、私も試しに同じように握ってみる。嬉しそうに圭介が笑うのがすぐ横で聞こえ、私もつられて笑った。