比較的早くに夕食を取り終え、渋沢と雑談しながら部屋に向かっていると、物凄い勢いで走る見慣れた姿が目に映った。食堂に居なかったので、どこかで作業しているのだろうと思っていたが、どうも様子がおかしい。声を掛ければ、1度こちらを振り向いたものの、すぐに顔を逸らされた。一瞬ではあったが、視界に飛び込んで来たのは何かを耐えようとする悲痛に歪んだ顔。それなりに付き合いは長いが、そんな顔を見たのは生まれて初めてで。慌てて追いかけてその腕を掴めば、今にも泣き出しそうな目と視線がぶつかった。


、どうした!」
「亮」


ぽつりと名前を呼ぶと限界だったのだろう。薄っすらと潤んだ目から止め処なく涙が溢れ出た。問答無用で自分の胸元に押し込めれば、両手で着ていたTシャツを握り締められた。


「ほら、こっちに来い」


胸元にを貼り付けたまま、ここから目と鼻の先の部屋のドアを渋沢が開ける。悪いなと目で伝えれば、構わないさと複雑な笑みで返された。


「えっと、俺達、席外した方が良いか?」


既に部屋に戻っていた水野が気不味い顔で尋ねて来た。既に立ち上がっている辺り、ここは頷いた方が水野としてもありがたいようだ。


「何でもええけど、ちゃんと手当てしてあげや。見てて痛々しいわ。折角の別嬪さんなのに」


藤村の言葉に水野も問題の箇所に気付いたらしく、赤くなった後、急に青褪めた。水野の視線をそのまま追い、の首の後ろを覗き込んだ。目元が口元が怒りの形に歪む。おそらく今の自分は嘗て無い程、凶悪な顔をしているに違いない。それだけの怒りが自分の全身を渦巻いた。しかし、未だに体を小刻みに震わすの姿に怒りを自分の中で出来る限り消化し、理性を強めた。怒りのまま動いてはが傷付くだけだ。


「渋沢。適当に理由付けて救急箱持って来てくれないか?水野は食事1人分、食堂から貰って来てくれ。藤村は悪いが・・・」
「わかってる。ちょっと聞いて来るわ」
「悪いな」


藤村は首の傷を見て自分の役割を察したのだろう。皆まで口にしたくなかったので、察しの良い藤村に感謝した。本来ならば自分が問い質したかったが、この状態のを放っておける筈など無い。部屋を一斉に出る彼らを見送ると、ゆっくりとその頭を撫でる。こんな事をするのも子供の時以来だったが、不思議としっくりと来た。





まだ喋れる状態では無いのだろう。それでもコクコクを2回頷いた。


「お前の首のコレをやったのは山口か?」


長い間があった後、ゆっくりと1度頷いた。







答え難い質問は敢えて避けて、何があったのかおおよそ把握した頃、うつらうつらとの頭が船を漕ぐように揺れ始めた。有能だと監督陣に評価されたお陰で、重要な仕事を任される事も増えたと聞いていた。今朝も眠たそうな顔をしていたので、かなり疲れていたのだろう。


「眠っちまえ。起きたら全部解決している」


普段のならそれでは都合が良過ぎると笑う台詞だった。しかし、今のには有効的な言葉だったようで、その言葉に安堵したのかゆっくりと全身から力が抜けて行った。





が眠りに落ちてしばらくして、救急箱を持った渋沢が戻って来た。眠ってしまったに薄っすらと安堵の表情を浮かべる。手早く救急箱の中から消毒液と拳ほどの大きさの絆創膏を取り出す。備え付けのボックスティッシュから数枚取り出して消毒液を染み込ませ、傷口を拭く。白い首には歯型だと即座にわかる傷と鬱血して出来た赤い痣。暴力と愛情と。本来ならば同時に存在しない筈の相反する痕跡だ。こうなってしまった理由をはわかっていなかった。恋愛に関しては奥手のだが、共に育った山口ならばそんな事は百も承知だろう。が知らない以上、山口がこのような蛮行に及んだ理由を知る必要があった。ここまで関与したからには、絡まった糸を解いて立ち去るつもりだった。




消毒を終え、最後に絆創膏で全ての痕跡を覆い隠す。救急箱に使った物を戻していると、ノック音が数回。両手が塞がって入れない水野に、渋沢がドアを開ける。


「悪い、遅くなった」
「何かあったか?」
「食堂で誰の分か聞かれたから、さんのだと答えたんだ。近くで山口さんがさんを探していたらしく、聞かれたんだけど、シゲに何とかして貰った。あいつなら上手くやってくれるだろうし」


トレイを備え付けのローテーブルに置くと、そのまままた出て行くのかと思いきや、水野はどさりと自分のベットに腰を下ろした。


さんと三上先輩って仲良いんですか?」
「まぁ、良い方だろうな」


三上もしくはアンタと呼んでいた水野の敬語もこの呼び方もようやく慣れて来た。始めはくすぐったいような照れ臭いような気持ち悪いような、とにかく落ち着かない気分にさせられていたのだが、半年も聞けば流石に慣れる。


「母親同士が姉妹だからな」


血の繋がりがある事に納得が行ったのだろう。俺とはどことなく顔立ちが似ているのだ。水野が目を丸くしながらもそれ以上深く聞く事は無かった。考えてもみれば、の性格で恋人が居るにも関わらず他の男に理由無くここまで気を許す筈が無いのだ。最もがここまで俺を頼った事は1度も無く、廊下で遭遇しなければきっとどこかで1人泣いていたに違いない。


「お待ちどうさま。今、戻ったで〜」


お気楽な響きの声と共に藤村がやっと戻って来た。飄々とした顔だったが、一瞬だけ鋭さを帯びた目に変わる。


「どこぞの阿呆が馬鹿な真似をしてくれたみたいですわ」


さて、絡まった糸を解くとしようか。藤村の話に俺は姿勢を正して耳を傾けるのだった。