藤村に部屋で待つように言われたが、今、誰かと一緒にいる気にはなれなかった。人気の無い場所を求めて彷徨えば、気が付けば第3会議室のすぐ傍まで来ていた。電灯を付けっぱなしにしたまま、を探しに出たので煌々とした灯りが漏れて薄暗い廊下に差し込んでいた。そういえばの広げていた資料や私物がそのままだった。回収して行こうと部屋に入ろうとすると、同じタイミングで部屋から出ようとする人間と鉢合わせになった。


「山口」
「何でこんな所に居るんだ?」


疑問をそのままぶつければ、ここだけ電灯が付けっぱなしになっていたので気になってここまで来たのだとそいつは言った。確かにこの辺は滅多に使う事が無い部屋ばかりが立ち並んでいる区域だ。特におかしい点も無かったので、気にせずに辺りを探る。あの時、の手にあったクリアケースとペンケースが机の下に転がっていた。落とした拍子に下に入ってしまったのだろう。屈んで拾っていると、俺行きますと背中に言葉を投げ掛けられた。返事をする間も無く、そいつは足早に部屋を出て行く。正直1人になりたかったので、早々に出て行ってくれて助かった。並ぶ椅子の1つに腰掛け、ぼんやりと携帯を眺める。


藤村にと会せて貰えるように頼んだが、かなり取り乱しているようで今の状態ではとても会わせられないと言われてしまった。が落ち着き次第、会わせて貰えるのだが、それがいつになるのかはわからない。早く会いたい。会って謝りたい。それくらい酷い事をした。俺を挑発するようにの首に残された誰の物ともわからないキスマーク。人気の無い場所だったとはいえ、無防備に寝ていたにも怒りが湧き、苛立ちを全てにぶつけた結果になった。はおそらくキスマークを付けられた事にすら気付いていなかっただろう。何が起きたのかわかる筈も無く、俺の突然の暴挙はの心を酷く傷付けたに違いない。


早く会いたい。会って謝って、慰めたい。傷付けた俺が慰めるなんて滑稽な話だけど、が俺以外の他の男に慰められているなんて考えたくも無い。それがと血の繋がりがある三上でも、だ。


けれど今は待つしかない。ぼんやりと頬杖をついて携帯を眺める。デジタル表示の時計を目で追うが、携帯の待ち受けの画面は一向に変わらない。逸る心を抑えながら待っているうちに、意識をここでは無いどこかに飛んでいたようで、突然肩を叩かれて思わず身を竦めてしまった。


「おわっ!」
「わっ!」


間の抜けた俺の声に、同じく間の抜けた声が被る。振り向けば、恐る恐る手を伸ばしているがすぐ後ろに立っていた。


!」
「ひゃあ!」


待ち望んだ存在を目の前に、考えるよりも先に動いた。腕の中に閉じ込めてその存在を確認して、安堵したかった。しかし、そんな俺には驚いたように声を上げ、に届く前に伸ばした腕は力無く落ちた。唖然とする俺の後頭部に鈍い痛みが走る。あまりの痛みに火花のような星のような何かが見えた気がした。


「阿呆。これ以上、脅えさせるな。馬鹿」


容赦無い鉄拳と言葉のダブルパンチである。生理的な涙が滲み、僅かに歪んだ視界の中に三上が映る。心底、呆れ返っているように見えた。


「亮。今、結構良い音したんだけど」
「手加減あんましなかったからな」
「もう、少しは手加減して」


パタパタと忙しない足音を立てて、は駆け寄ると俺の頭を触り始めた。触れられた瞬間、痺れにも似た痛みが走る。痛みに体を引き攣らせれば、はそれ以上触らずに軽く息を吐いた。


「あー、少したんこぶが出来てる。冷やさないと」
「俺の部屋に救急箱があるから終わったら取りに来いよ」
「手当てが先だよ」
「・・・と、言っているがどうする、山口?」
「大した事無いから、後でも平気。それより先に謝りたい」
「だとよ。一応、何でこうなったか、にも前もって説明しておいた。その上でお互いきっちり話し合え。一応、念の為に俺もここまでついて来たが、もう大丈夫だな??」
「うん、ありがとう。亮」
「じゃあな」


現れた時と同じように唐突に三上は俺達の前から消えて行った。殴ったのはを傷付けた件と、の気持ちを考えずに再び同じ事を繰り返そうとした事に対する制裁なのだろう。だが、正直、三上の制裁のお陰で少し気が楽になった。は俺を無条件で許してしまうところがある。今回も自分にも非があったと言って、きっと簡単に許してしまうのだろう。簡単には許されてはいけない事をした。誰かに怒られたかったのかもしれない。この抱える罪悪感を肯定し、罰せられたかったのかもしれない。




三上が立ち去り、その存在がまったく感じられなくなった頃、どちらかが言葉を掛ける訳でも無く、俺達は同じタイミングで顔を見合わせた。長い間、一緒に居たせいか、相手ならばこんな風に言葉に出さなくても伝わる事が多い。だからこそ、口にしなければいけない言葉を言葉にしなかった。話す事を怠り、伝わる事に甘えた。それゆえに俺はに対して言葉が足りない。



「うん」
「ごめんな」
「うん。・・・でも、私も不注意だった」
「えっと・・・・・・頭、撫でても良いか?」
「良いよ」


可笑しそうにが笑う。今までこんな風にわざわざ聞いた事が無かったので、それが面白いのだろう。少しだけ緊張しながらの頭に手を伸ばした。何だか付き合い始めた頃のようだ。猫のように気持ち良さそうに目を細めるがとても愛おしく感じる。居て当たり前になり過ぎたのだ。俺の行動1つで傷付いて、離れて行ってしまう事だって有り得るのに。


、ごめん」
「うん」
「痛かっただろ」
「痛いって言うか、びっくりしたかな・・・」


遠くを見るような目では視線をあらぬ方向に漂わせた。どうやらかなり痛かったようだ。今は分厚い絆創膏のお陰でその痕跡は全て隠れているが、その下にはきっと痛々しい跡が残されているだろう。



「うん?」


肩に腕を回し、目で問う。口にするには難しい言葉は、には正しく通じだようで首をこちらに倒した。肩を抱き寄せて身を寄せ合う。それから俺は思ったまま、言葉を口にした。中には口にすべきでは無かった言葉も混じっていたかもしれない。はそれを静かに聞き続けた。幾つかの約束を交わし、差し出した小指にの小指が絡み付く。


「約束だね」
「ああ、約束する」
「歌でも歌う?」
「殆ど覚えてねぇよ」


顔を見合わせ、クスクスと笑い合う。距離が縮まった分、顔も近い。



「うん?」
「キスして良いか?」


絡めた指を解き、指先で額の真ん中を軽く撫でる。


「そういう事は一々聞かないでよ」
「いや、ほらやっぱり意思疎通って大事だろ」
「確かに大事だけど・・・まったくもう」


そう言って少しだけ顔を赤く染めたは瞼を閉じた。額に1度キスを軽く落とした後、そのまま誘われるように唇にキスした。