以前から欲しいと打診していた物が手に入った。いやー、今日は良い日だなー。なんて浮かれていたのが悪かったのかもしれない。
月明かりに僅かに光る白銀の刀身。良く切れるのだろう。首に当てられただけで薄皮が1枚切れた。
「死ぬ前に言い残す事は無いか?」
上機嫌とわかる低い艶めいた声。慈悲深いのか、それとも興に乗っているのか。おそらく後者だろう。命を奪う事にまったく戸惑いを感じていない瞳の色は黒く深い。深遠の闇を彷彿とさせるソレは快楽殺人者の類ともまた違う。必要だから殺す。ただそれだけの行為なのだろう。この道を選んでしまった我が身の不幸を嘆いても仕方が無い。この男が恐ろしく強く、そして私が弱かった。ただそれだけの話なのだ。
「あー。言い残す事は無いけれど、やっておきたい事があるんですよ」
「何だ?」
今日はこの男にとっても良い日だったのだろう。アカの他人の私が見ても上機嫌とわかる顔だ。きっと普段通りの機嫌ならば、こうして会話する時間も無く屠られていた事だろう。
「冷蔵庫に特製のプリンが入っているんですよ。それ食べたいです」
私の言葉に男の目が丸くなった。何言ってるんだ、コイツとでも思っている事だろう。
「死ぬ前に食べたいくらい美味い物なのか?」
「そりゃあ、原材料費がとんでも無く掛かってますから」
私の言葉に男は興味深そうに「ほぅ」と呟いた。首に当てられたナイフが下げられる。どうやら少しだけ寿命が延びたらしい。最もこの男から逃げられるとは思わないので、『ほんの少しだけ』である事は間違いけれど。
「どれだけ金が掛かっているんだ?」
「そうですね。大雑把に計算するだけで・・・100万ジェニーくらいは掛かってますよ」
「100万?・・・バカかお前?」
愚か者を見る眼差しで男は私を見下ろした。金額的に嘘だと判断したのか、それともプリン1つにこれだけの金を掛けた事を嘲笑っているのか。男の言うバカの意味がわからなかったものの、手にしたナイフが振り落とされる前に私は言葉を繋いだ。
「卵はクモワシ。ミルクは放牧したシャリオ牛。全て今日取れたての品だから、大体そのくらいの価値があるんです。他の材料も厳選された品ばかり。これに私の腕を加えて計算したら、プリン1個10万ジェニーくらいする筈ですよ」
自信満々に答えたら、大した自信だと返された。
「私の唯一の特技ですからね、料理は。この自信に見合った味を作っているつもりですよ」
料理は私の人生である。満足行かない物しか作れない人生など生きる価値など私には無い。そう告げれば、男の琴線に引っかかる何かがあったのだろう。クツクツと男は喉で笑った後、「そこまで言うなら食わせろ」と言った。
「良いですけど、1つお願いがあります」
「何だ?」
「食べ終わるまで私を殺さないで下さい」
「・・・・・・普通そこは殺さないで下さいとか見逃して下さいじゃないのか?」
何だろう。この男に『普通』を語られたくないと思った私は間違っていない筈だ。
「じゃあ、聞きますけど見逃してくれるのですか?」
聞き返せば笑顔で返された。うん、あの顔は無理と言っている。
「プリンを出したらハイさようならは嫌なので。食べれないのも嫌ですが、何よりも仕上げのカラメルソースを掛ける前にやられたくありません。私の料理の腕を判断して貰う以上、完全な物を出します。・・・中途半端な物を出すくらいなら何も出さない方がマシです」
「物凄い執念だな。お前、美食ハンターか?」
「アマチュアですが、一応」
「そうか・・・」
男は私の手を引いて無理矢理にでも立たせた。案内しろ。短く命じられ、家に帰る。休業中の宿屋に人を通すのは久しぶりだ。埃1つ無い食堂のテーブルに男を座らせ、キッチンに立った。エプロンを身に付け、手を洗い消毒する。冷蔵庫からプリンを出し、カラメルを掛けると完成。2人分トレイに乗せ、1つを男の前に差し出した。
「お前も同席しろ」
近くに居ようが居まいが関係無い。それだけの実力差が私と男の間にあった。言われるがまま席に付き、プリンをスプーンで掬う。クモワシの卵は非常に濃厚な味だが、見事にシャリオ牛のミルクと互いの味を引き立て合っていた。今まで試行錯誤を繰り返した甲斐があった。じっくりとプリンを味わっていると、正面に座る男の満ち足りた顔に料理人魂が満たされた。死ぬ前に食べれて良かったと思っていると、カランと陶器に転がるスプーンの音。どうやら男は食べ終わったらしい。
「・・・お前、得意なのは菓子だけか?」
「ジャポン食、アイジエン食、ヨーロピアン食なんでも御座れよ」
「そうか・・・また来る」
「は?」
『またの機会』があった事に驚いた。クエスションマークを浮かべる私に構わず男は席を立つ。踵を返し1度もこちらを見る事無く言いたい事を言って去ってしまった。
「あー、生きてるな。うん」
言葉に実際に出さなければ実感出来なかった。
「また来るっていつ来るのだろう?」
連絡先はおろか名前も知らない相手だ。それは向こうも同じ事なので、おそらくはまたこの休業中の宿屋に気まぐれにやって来るのだろう。厄介な事になったと独り言つながら最後の一口を食べた。こういう時には美味い物を食べるに限る。
世間ではこれを現実逃避と言う。