風化して所々崩れ落ちたレンガ壁。背を預けていた男は気だるそうな眼差しで書類に目を通す。部下達は窺うように視線を投げ、空を仰ぐ。日が高く、燦々と輝いている。せめて涼しい所でやるべきだったかと部下の誰もが思うものの、この場所を指定したのは男自身なので誰も口にする事が出来ないまま静かに男の次の行動を待った。


「これはユイジーン。これはイーディット。こっちはアリク」


手にした書類が次々に部下に手渡される。恭しく部下達は受け取るが、最後の1枚が中堅クラスの部下の手に渡るのを見て、訝しげに眉を顰めた。


「カーティス様は他の仕事に当たられるのですか?」


幹部の中でも古参の男が尋ねる。繁忙期であるこの季節。誰よりも多くの仕事を抱え、遂行している筈の男の手に仕事の仔細を記した書類は1枚もなかった。大口の仕事でも入ったのだろうか?ターゲットはまた王族か?だとしたら『あの時』以来か。この場にいる誰もが快楽殺人者でもワーカーホリックでもない。しかし、それでも獲物が大きいとやりがいを感じるのは職業病なのかもしれない。薄っすらと笑みを浮かべる部下達に対し、男、カーティス=ナイルも楽しげに笑う。


「ああ、僕は今日で引退です」


部下達の笑みが一瞬にして凍りついた。









朝、起きて執務室に向かうまではいつも通りだった。執務室の傍まで来て、何やらいつもとは違う事に気付く。執務室に感じるいくつもの気配。アッシュとタリアの物と。そうで無い物が幾つか。その気配は希薄だが、弱弱しい物では無い。意識しないと気配を消してしまうライルの物では無い。自己主張の激しいロベルトやタイロンの物でも無い。カーティスにしては気配遮断がお粗末過ぎる。スチュアートならば凛とした冬の静けさにも似た気配を感じるのだが、それとも違う。アッシュとタリアの気配に何の違和感を覚えないので、おそらく訪問者だろう。


一体、誰だと思ってドアを開く。


そして、閉めた。


「待って下さい!!」


閉められたドアの向こうからアッシュ、タリア、そして顔見知りの彼らの声が重なり合って聞こえ、頭を抱えつつ嫌々ではあるが私は再びドアに手を伸ばした。


それ程広くも無い執務室。その床に膝を折るのはカーティスの配下の男達。遠い海の果てにあるとされる黄金の国に伝わる技法。土の下に座すと書いてどげざと呼ばれる業を何故彼らが取得しているのかはわからないが、とりあえず――。


「カーティス絡みのお話でしょうか?話だけはとりあえず聞きますので、普通に座って貰えません?」


暗にそうしている間は話を聞かないと告げれば、彼らはシュタッと瞬く間にソファーに座った。








「さて、一体どんな問題が起きましたか?」


対面側のソファーに腰掛けると、顰め面を隠さないまま、本題に移る。カーティスの部下がわざわざやって来るという事は、カーティス絡みの話でなおかつ私もそれなりに関わって――いや、巻き込まれる予定の話なのだろう。カーティスは基本的に部下が私に関わる事を好まない。どんなに小さな話でも部下を伝令に使わずわざわざカーティス自ら足を運ぶくらいだ。そんな事など重々承知な彼らがわざわざ私の元にやって来たのだ。余程の事が起きたのだろう。聞く前から頭が痛くなりそうだが、ここで聞かなければ頭が痛いだけで済みそうに無い。


「カーティス様が引退宣言をされました」


補佐官2人が驚きの声を上げるが、私は特に驚きもしなかった。暗殺業に手を染め始めた頃は何も考えていなかったらしいが、名が売れ始めた頃にはいつか別の暗殺者に殺されるだろうと考えていたらしい。そんな未来予想図を描いていたのに、いつまで経っても訪れぬ終焉にカーティスは改めて今後の事を考え始めた。暗殺者が彼の下に何人も送られたらしいが、別に自殺願望がある訳では無いらしいので悉く返り討ちにし、名が売れ過ぎて色々と面倒になったので、そろそろ引退を考えていると以前聞いた覚えがある。


「驚かないのですな」
「本人から少しだけ話を聞いていたからね」


その言葉に不満げな視線が私に幾つも注がれる。止めて欲しかったのだろう。カーティス抜きでも殺しは出来る。だが、カーティスあっての組織なのだ。形はどうであれ、彼らはカーティスを心棒している。部下として働きたがっている彼らにカーティスの引退話は予想以上に効いただろう。


「無駄ですよ。彼は私に好意的ですが、嫌な事はやらない人間です。私がいくら言葉を重ねたところで引退は撤回しないでしょうし、それは貴方方が言っても同じでしょう。しつこく付き纏えばサクッとやられるのがオチですよ」
様も引退には賛成なのですか?」
「別にカーティスが仕事を続けようと続けまいとどちらでも良い、と言うのが本音ですね」


既に一生分の生活費はとっくに稼いでいるだろう。余程、愚かな金の使い方をしない限り、一生、裕福な暮らしが出来る筈だ。最もカーティスに豪華とか華美とか贅沢というのはあまり似合わないのだが。


「それは様が養って行くからですか?」
「はぁ?!」


何だか恐ろしい単語を聞いた気がする。聞かなかった事にしたいが、後が怖い。


「何故私がカーティスを養わなければならないのです?彼、一生、楽に暮らせるくらい稼いでいるでしょう?」
「え?い、いえ、あの、引退して主夫になると言っておりまして」
「彼が?・・・私のところでですか?」
「・・・・・・はい」
「初耳なのですが・・・」
「・・・・・・はい」


その言葉に思考がクリアになった。冷静な自分と投げ遣りな自分。2つの思考が働き始めるが、物騒な事しか思い浮かばない。締めるとか絞めるとか〆るとか。普段の私ならばここで頭を冷やすのだが、不思議とこの状態を止めようとは思わなかった。きっと自重とか自制心とかいったものは、投げ遣りな自分の足元に転がっているに違いない。


堪忍袋の緒が切れた。




ダラダラとカーティスの部下達が脂汗を掻き始める。今までカーティスと揉めるのが面倒だったので、かなり彼に譲歩して来たつもりだった。好意を持たれているのもわかっていた。私の気持ちがまだそれほど固まっていなかったのもあったので、私から動く気は今のところは無かったのだが、カーティスから何か動きがあれば本気で考えて真面目に応じようと思っていた。それなのにまさかこう来るとは。付き合いがそこそこある分、カーティスの次の動きも何となく予想が付く。押しかけ女房のように私のところに押し掛けるだろう。そのうち既成事実に持って行かれるな、これは。


今までは何だかんだと言いながらも許容範囲内だったので、カーティスに流されていた。しかし、今回はきっちり話を付けなければいけないだろう。力技に持ち込める程、安くなった覚えも無い。








席を立った私が愛用の杖を手に取ると、慌ててカーティスの部下が止めようと立ち上がるが――視線でそれを制した。


力なくソファーに座り込む彼らを他所に、いそいそとショルダーバックにマジックアイテムを入るだけ詰める。一分の隙も無く詰め込むと、肩に背負う。


「すいませんが所用を思い出したので、少し席を外します。アッシュ、タリア、後は頼みますよ」
「あの、様は一体どちらへ?」
「何、ちょっと」


クスリと漏れた忍び笑い。それを見た彼らが硬直する様が何だか面白かった。


「ちょっと困った押しの一手しか知らないストーカーに一般常識を教えに、ね」










その後、カーティスの家に突撃し、何とか引越しの準備を止めた。カーティスを説得出来て良かった。ちょっとスラム街の通りがボコボコになった。具体的に言うと謎の爆発で壁が壊れたり、道が抉れたり。まぁ、仕方無いよね。仕方無い仕方無い。




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ヒロイン遂にブチ切れる。
「私達、そもそも付き合ってませんよね!!」
「じゃあ、付き合いましょう!」
「軽い!そんな軽い言葉に靡いて堪りますか!!」

そんなやり取りをスラム街でやってました。住民の皆さん、大迷惑。でも耐えるしか無い。

本気状態のヒロインにカーティス大興奮。
「僕の事、そのくらい好きって事ですよね!」

ポジティブ過ぎる発言に嫌気が差したヒロイン。
八つ当たりの魔法をぶっ放したのがスラム街大被害の原因。