ギルカタール王宮魔術師付き補佐官。


それがアッシュ=ミッシレに与えられた肩書きである。魔法の需要の低いギルカタールにおいて、魔法に関わる部署は閑職だと言われている。需要が低いと言う事は仕事が少ないと言う事。狭き門を潜り抜けた使用人達にとって配属されたくない職場、ナンバーワンだった。そんな部署に配属されたアッシュは当初非常に腐っていた。生粋のギルカタール生まれギルカタール育ちの魔術師など存在しない以上、他国の人間を王宮に招き入れるのは致し方無い事であり、監視役として使用人が補佐役になる事もそう珍しく無い事だが、実質上の左遷である。左遷させられる理由の思い浮かばないアッシュとしては不本意極まりない配属先であった。


しかし、これがアッシュにとって大きな転機となる。


王都爆破未遂事件を始めとする幾つかの事件を解決したのは他ならぬアッシュの上司だった。桁外れの魔法の才、人を惹きつけ従わせる器量、そして本職が魔術師だという事を疑わずにはいられない程の体術と剣技。格の違いに気が付けば魅入られていた。仕える事に喜びを感じ、同じ使用人達からの嘲りの視線がまったく気にならなくなった頃、配属されたくないナンバーワン部署は配属されたいナンバーワン部署へと変わっていた。







任された仕事が終わり、未決済処理の書類片手にアッシュが執務室に足を踏み入れる。他の部署に比べるとこじんまりした執務室。机が3つ、コの字を書くように配置されている。

「ただいま戻りまし」

上司の姿を確認した途端、アッシュの体はカチーンと凍り付いた。バサバサと書類が床に散らばり落ちる。動揺する部下には咳払い1つ落とす。

「言いたい事は大体わかるが気にするな。これは・・・・・・猫だと思ってくれ」
「猫・・・ですか?」

恐る恐るアッシュは上司の姿を視界に入れる。いつも通り上司であるは机に座って仕事をしているが、その腰掛けている椅子に彼女を包み込むように腕を回す赤い髪の男も座っていた。目が合った瞬間にアッシュは慌てて逸らす。生きる伝説と目を合わせる度胸はまだ無かった。

「例の件はどうなった?」
「あ、はい。予定通り進みました」

アッシュから書類を受け取ると、は至って真面目な顔で書面に視線を落とした。前屈みになり髪が前に流れて僅かに晒された白いうなじ。そこに赤い髪が埋まるように頭を押し付ける。グリグリグリ。擦り寄る様は確かに猫のようだった。明後日の方向にアッシュが視線を逸らす。

「カーティス、重い」

当のは淡々と仕事をしながら時折苦情を呈していた。最強の暗殺者と対等関係にある上司は今日も今日とて素敵だった。出来る事なら惚れ惚れと眺めていたい所なのだが、視界にあの赤が映るだけで身が硬直してしまうので、こうして見当違いの方向、白い壁を眺めるしかなかった。

万年筆を走らせた後、印章を数度押す。出来上がった書類をアッシュに手渡すと、は外回りの仕事を数件言いつけた。普段ならば外回りはの仕事なのだが、背後にくっ付けたまま外出する気にはならないのだろう。もう1人の補佐官、タリアの姿も見えないので、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。確かにこの状況下で執務室で仕事するのはかなり胃に悪そうだとアッシュは腹部を擦った。

「それでは行って参ります」
「ああ。気をつけて。それと・・・」

物事をはっきりと話すが珍しく言い淀んだ。苦々しいものを見る表情で首を僅かに回した後、深い溜息をまた1つ漏らした。

「タリアにも言ってあるが、今日は直帰で構わない。・・・明日からは通常通り仕事が行えるようにする。・・・すまないな」

から謝罪の言葉が飛び出して、慌ててアッシュがフォロを入れようとした。

「貴方が謝る事ではありませんよ」

アッシュの言葉よりも先に、首筋に顔を埋めたままさらりと赤い死神が言った。この場合どうすれば良いのだろうか。迷い言葉を失うアッシュを他所にが呆れた口調で窘めていた。

「公私混合しているのは紛れも無く私です。それとも何?カーティス、離れてくれるの?」
「嫌ですよ。今日1日はこうする約束です」
「何も私が仕事の時じゃなくても良いじゃない」
「僕は今したいんです。そういう約束でしょう?」
「・・・仕事とは言え、何であんな約束・・・いや、そんな事を言っても仕方ないな。それではアッシュ、仕事頼みましたよ」
「はい」

チラチラと時折視線を送られている事に気付いたアッシュは再び目が合う前に執務室を出た。早歩きで廊下を歩き、棟の出口に出た所でようやくアッシュは息を吐けた。

「こ、怖かった」

視線と共に軽い殺気も送られていたのだ。アッシュとてギルカタールの男、まして狭き門を潜り抜けた王宮の使用人である。殺気を浴びせる事も浴びせられる事もあったが、あれほど軽い殺気でこれ程の恐怖を感じたのは初めてだった。それだけアッシュとカーティスの間に実力差があるという事だ。あれ程の人間と対等に遣り合えるはやはり素晴らしい。感嘆すると共に思い浮かんだのは先程猫のようににしな垂れかかっていたカーティスの事だった。明らかにアッシュの目から見てもカーティスはに惚れ込んでいる。わざわざ暇潰しのためだけに王宮に来るような人間には見えない。ましてそんな暇人の相手をがするとも思わない。恐らく本気なのだろう。それをわかっているからこそ、も多少蔑ろにしつつも相手にしているのだろう。

最強の魔術師に最強の暗殺者。組み合わせとしては非常に悪くない。悪くないのだが・・・。

「マスター、苦労しそうだな」

ふと零れた言葉に納得が行った。先程の様子では確実にが苦労しそうだった。しかし、アッシュには何も出来ない。彼らに匹敵する実力も度胸も覚悟も無い。そして頭の中に思い浮かんだのは、馬に蹴られての件の言葉だった。

「頑張って下さい、マスター」

溜息が増えた上司にアッシュがこの言葉を掛け続ける事、実に20年。その間に王女は女王になり、上司は宰相になり、アッシュとタリアは宰相補佐という異例の出世を果たし、女王の第1王子が即位し、上司が宰相の地位からやっと解放され、その後釜を上司の第1子が務める等々、様々な人間模様に巻き込まれる事など今のアッシュ=ミッシレが知る筈が無かった。



王宮魔術師補佐官の憂鬱