ピルルルルと軽快な音が平和島静雄の後ろで鳴った。
ソファーに腰掛けた静雄が軽く腰を上げる。ズボンの後ろポケットから自身の携帯電話を取り出すと、静雄は携帯を弄り始めた。その様子に上司であるトムが軽く目を細める。仕事中ではあるが今は待機中であり、トムも事務机に足を乗せ、新聞を読んでいたところだ。咎める事なく、特に新聞に面白い事も書かれていなかったので、トムはやる事も無く静雄を眺める。
携帯片手に静雄は淡く笑っていた。滅多に他人が寄り付く事が無い男の微笑。滅多に見られない光景に軽く目を瞠らせた後、トムは面白そうに口元を歪ませた。
「彼女からか?」
冗談半分トムが尋ねれば、予想通りのリアクションを静雄は見せた。
「高校時代のダチからっすよ」
そう言って静雄はカチカチと忙しなく指を動かし始めた。メールの返信を打ち込んでいるのだろう。静雄がメールを打ち込んでいるところは何度か目にした事はあるが、その姿に妙な違和感を覚えた。しばし思案後、その正体に辿り着く。
「メールの子は女の子か?」
「です」
短い肯定の言葉。軟派でマメな男ならともかく、静雄がせっせとメールの返信を打ち込んでいるのがそもそもおかしい。直接電話か短いメールというイメージの男がそれなりに時間を掛けてメールを送るとなると、相手は女性、しかも静雄がそれなりに好意を持っている相手だと予測が付いた。違和感の正体に気付いて、胸を軽く覆っていたもやもやした気持ちが晴れたトムは、それ以上聞かずに新聞にまた目を通し始めた。
「藍屋ってトムさん知ってますか?」
「東口の映画館の近くのか?」
新聞から顔を上げたトムに静雄が頷く。どうやらメールは送信し終わったようだ。
「藍屋ってアレだろ?渋いおっさんがちょっと前まで経営してたけど、5、6年前に店仕舞した所だろう?」
「良く覚えてますね」
「そりゃあ、あのおっさん知らない方がこの業界ではモグリだからな。・・・で、あの藍屋がどうしたんだ?」
「娘なんですよ」
「メールの子がか?」
「そうです」
藍屋と呼ばれた店が店仕舞をした頃、静雄はまだ高校生だ。藍屋についてどこまで知っているか。静雄の口振りでは知ってるようにも見えるし、逆に知らないようにも見える。トムからの窺う眼差しに気付かない静雄は嬉しそうに話した。
「こっちに帰って来るってメール来たんです。閉めた店を自分が再開するって」
「藍屋再開するのか?!」
静雄の言葉をトムの叫び声が遮った。驚いた静雄が目を白黒とさせながらも頷くが、トムの驚愕の叫び声は止まらない。何事かと静雄が問い返せば、驚きの余りにトムは先程まで自制していた言葉をそのまま吐き出していた。
「藍屋ってアレだろ、――の!」
「はぁ?!」
静雄のリアクションにトムは冷静さを取り戻した。聞き返して来るところを見ると、どうやら藍屋の事を知らなかったらしい。知っていたとしてもただの電気屋としか思っていなかったようだ。
(しまった・・・)
後悔したところでもう遅い。物凄い勢いで問い質して来る部下を少しでも落ち着かせようと宥めながら、トムはどこから説明しようかと頭を働かせていた。
その後、電話を掛けたものの繋がらなかった静雄は物凄い速さでメールを打ち始めた。おそらくはメール相手の子に問い質すつもりなのだろう。余計な事をしたかとトムは自問する。しかし、藍屋が本当に『昔と同じように』営業開始するならば、何れ静雄の耳にも入っただろう。早いか遅いかの差だ。そう結論付けてトムは今抱えている仕事を思い返した。
(藍屋が本当に復活するなら、少なくてもアレとアレを頼めるだろう?あとアレについては出来るか聞いておきたい所だな。俺としては再開は歓迎なんだけど・・・)
ちらり、と目の前の部下を一瞥する。自分の携帯に今にも八つ当たりしそうな程、怒り心頭といった静雄はきっと歓迎しないだろう。強く反対するかもしれない。
「落ち着けよ。・・・少なくてもお前と同じ年の、大学を卒業したばかりのお嬢さんには無理な仕事だ」
そう無理な仕事だ。どう考えても無理だ。出来る筈がない。それにも関わらず、在り得る話だと思ってしまうのは、静雄とその同級生が非凡な存在だからだろう。喧嘩人形、情報屋、闇医者。そこに藍屋を受け継いだ娘が加わったらどうなるのか。
(静雄には悪いがそっちの方が面白い)
そう思いながらも口では反対の事を言って静雄を宥めるトムは、気を静めるために煙草を吹かし出した静雄の紫煙を眺めながらどちらに転ぶかその結末を楽しみにする事に決めた。