一歩足を踏み入れれば実にスムーズに自動ドアが開いた。いらっしゃいませ。フロントに立つ店員が反射的とも言える速さで声を掛ける。ベージュを基調とした明るいロビー。フロントの反対側にはソファーが2脚置かれており、もう少し早い時間ならば時間待ちをしている客の姿が見えたかもしれない。


「21時から予約している者ですが」
「確認いたします。少々お待ち下さい」


PCで予約リストを確認する店員。カウンター越しに向き合っていたのは、折原臨也その人だった。


「21時予約の・・・名倉さま・・・でしょうか?」
「はい」


はっきりとしない口調で店員が確認する。バイト歴が浅いのだろうか。そんな疑問を浮かべながらもはっきりとした口調で臨也が頷くと、店員は困惑の表情に変わった。


「既に『名倉さまはお部屋に入っている』んですよ」
「え?」
「入力ミスかと思ったのですが、予約したお部屋のリモコンも無い状態で・・・。あ、先にお友達がお入りになられたかもしれません」


恐る恐る店員が可能性を口にする。今日ここで合流する店員の言うところの『お友達』とは22時に会う約束をしている。仮に早く着いたとしても他人名義で予約している部屋に入るだろうか。いや、彼らの精神状態に常識は通用しない。可能性は低いが、充分在り得る。そう結論付けた臨也は作り笑顔を張り付けて、「友達、先に入っちゃったかもしれないですね」と答えた。自身のミスでは無い事にとりあえず安堵したのだろう。あからさまにほっとした表情に変わった店員に臨也は部屋番号を尋ねると、足早に部屋に向った。







本来ならば21時に入店し、スーツケースを部屋のどこかに隠してから『お友達』が来るのを待つ予定だった。少し予定は狂ったが、問題は無いだろう。スーツケースは既に避難経路に配置済み。予約した部屋は非常口のすぐ傍。監視カメラがあるが非常口側ではなく、非常階段側を向いている。撮られる事は無い。そもそもこの程度では警察は本腰を入れて調べないだろう。新宿程ではなくとも、この街も毎日多くの犯罪が起きている。とりあえずどんな奴らか確認するか。一瞬だけ邪悪な笑みを浮かべるが、すぐにいつもの人当たりの良さそうな笑顔に切り替えて臨也は予約した108号室の扉を開いた。




6畳程の広さに2つ並べたテーブルと壁に沿って並べられたソファー。そこにぽつんと1人、先客がいた。


「あ、・・・こんにちわ」


蚊が鳴いたような挨拶だった。


「な、名倉さんですよね?」


すっと1度だけ女が顔を上げる。長ったらしい前髪でその表情は窺えず、すぐに女は俯いた。どうやら臨也の顔を確認したかっただけらしい。


「初めまして、名倉です」
「エミです。初めまして」


今日会うのは、ネット上では少し精神的に病んでいる印象を受けるエミと、生真面目な性格のユッキーの2人。勿論、本名では無くハンドルネームだ。居るとしたらエミの方だと臨也は踏んでいたが、どうやら当たりらしい。金色の髪は以前は綺麗に染められていたのだろう。ムラ無く染まっているのに、生え際付近は真っ黒なプリン状態だった。おそらくは生きる気力を失い、髪の事などどうでも良くなったのだろう。まるで年輪のようだと臨也は薄く笑う。前回会った奴らより大分期待できそうだった。


「何か飲む?」


先に勝手に入った事に対して臨也は何も言わなかった。言ったところで無駄だからである。彼女はこれから死のうとしているのだから。と、言っても残念な事に臨也は自分と接触したこの手の人間全て、未だにどこかで暮らしている事を知っている。生きたいから生きているのか、死に切れないからか生きているのか。臨也にはどちらでも良い事だ。正面で俯く少女も同じかもしれない。今、死にたがっている状況には変わりない。例え1秒後に生きたがっても、それはそれで別に良いと思っている。


「じゃあ、アイスコーヒー」
「了解」


内線電話でアイスコーヒーとウーロン茶を頼むと、臨也はいつものように出入口すぐ傍のソファーに腰を下ろした。薄暗い部屋の中で臨也はエミを観察する。纏まりの無いボサボサの髪。服装は露出が少し高く、へそと胸元が露になっていた。これまでの生活はそれなりに良かったのだろう。手は綺麗だった。生命力自体はあるものの、気力だけが空になった人間。初めて出会ったタイプに臨也の心が踊る。


「エミさんは普段何やっている人?俺はフリーターなんだけど」
「わ、私もフリーター」


小さな擦れた声の悲哀さが滑稽に感じられる。緊張しているのだろうか。それとも気が逸っているのだろうか。大丈夫かとどちらにも取れる質問を向ければ、人と会話する事自体、久しぶりだと返って来た。おそらくフリーターというのも昔の話なのだろう。




飲み物を手にした店員がノックと共に現れる。会話を止めるまでもなく、エミの方から口を閉ざした。手早く飲み物を配ると、足早に店員は去って行く。それでもエミは俯いたままだ。アイスコーヒーのグラスに臨也は何かを落とすと、エミの前のテーブルに置いた。


「それ飲んで落ち着いたら?」
「あ、はい・・・」


頷くものの、エミはグラスに手を付けなかった。胃の辺りを押さえている。胃痛でも感じているのだろうか。へそを出す格好で胃痛なんて笑い話以外の何物でも無い。臨也の侮蔑の眼差しが胃の辺りを押さえるエミに注がれる。


一向にエミのグラスの中身は減らなかったが、臨也との会話の濃度は徐々に増して行った。減らないアイスコーヒーを気にしながらも、自分を満足させるだけの会話に臨也は上機嫌だった。


エミの自殺動機は特別珍しいものではない。常人であるならば歯を食い縛れば乗り切れるレベルのものだ。ただそれが幾重にも連鎖したらどうなるだろう。エミは臨也から見てもギリギリの状態で踏み止まっていた。あと一押し何かが起これば迷い無く死を選んでいただろう。その、あと一押しが無かったからこそ、エミは踏み止まり、自殺志願者サイトで共に逝く誰かを探していたのだろう。稀に見るケースに臨也の笑みが深くなる。


既に臨也の頭の中から当初の計画は消えていた。とりあえずこの女は捕獲しておこう。後から来るもう1人も面白そうなら一緒に連れて行くし、面白くなかったらいつもの便利屋にこいつらの実家まで運ばせよう。とりあえずはこの飲み物をどうやって飲ませるか。異物混入に気付かれたという事はまず無いだろう。気付かれずに入れたし、ただでさえ濃い飲み物な上、部屋の中は薄暗い。まだ時間には余裕があるが、どうするか。臨也は自分の頼んだウーロン茶に口を付ける。すると―――


エミの体が大きく揺れた。




始めは何かの病気か、はたまたドラック中毒かと考えた。胃をずっと押さえていた時点でその可能性も考えておくべきだったと臨也は内心舌打ちする。厄介な事になったと思いながらも気遣う振りをすれば、エミは今までまったく手を付けなかったアイスコーヒーの入ったグラスを掴んだ。苦しそうに飲み物を懇願する。


「待って、こっちの方が良い!」


エミの掴んだグラスの中身は睡眠導入剤入りのアイスコーヒーだ。この状態で飲んで万が一死なれては臨也としても厄介な事この上ない。慌てて自分の掴んでいたグラスを手渡そうとする。苦しいのかグラスを掴んだまま、エミの体が上下に揺れる。テーブルにいくつもの茶色の雫が落ちた。


「あはははははははは、もう駄目!限界!!」


防音が利いた部屋にエミの笑い声が充満する。それは先程の蚊の鳴き声とは違い、生命力がそのまま乗った明るさの篭った声だった。突然の出来事に、ぽかんと臨也は呆ける。だが、それも一瞬の事。邪悪さに邪悪さを重ねた顔とも言うべき歪んだ表情で、臨也の口から呪詛にも似た言葉が吐き出される。


「これはどういう事かなぁー?」


まるで池袋で静雄が臨也を見つけた時のような、単純で純粋でそして強烈な殺意が篭った言葉だった。聞いた者を心底震え上がらせる程の冷ややかさ。しかし、それらを一切を意に介さず、「やーやー、ごめんごめん」と心の篭らない言葉が返って来るだけだった。静雄程では無いが、臨也も割りと気は短い。殺すつもりは無いが、それなりの報復はさせて貰うつもりで愛用のバタフライナイフに手を掛ける。手に馴染む重さ。パチンと開いて閃かせれば―――。


ポン。


臨也の腕の動きに合わせて、紙吹雪と共に万国旗が宙を舞った。




部屋に再び女の笑い声が響いた。