怒気がそのまま吐き出されたような声だった。これが大都会のど真ん中ではなく、閑静な住宅街ならさぞ良く響いたであろう。緑豊かな自然の中でならば、危険を察知した鳥や小動物達が一斉に避難しただろう。獰猛な獣。そんな印象を受ける声に聞き覚えのある者から順にそそくさと進路を変えて行き、好奇心に負けた者から安全と踏んだ場所まで移動して遠巻きに眺め出す。そのどちらにも当て嵌まらない2人は逃げもせず、声の主が眼前に現れるのを待った。
「ちゃん」
「何?手助けはしないよ」
「ナイフくらいは良いんじゃないかな?」
折原臨也は現在丸腰である。普段ならばナイフを何本か隠し持っているが、つい先程、全て隣にいる手癖の悪い人間にすり替えられてしまった。油断が無かった訳ではない。もしもの為に他人には手の届き難い場所にも忍ばせてはいた。だが、臨也に気取られる事無く、その全てをはすり替えていた。1対1の状態で臨也相手にここまで出来る人間はそう居ないだろう。実に見事な腕だったが、臨也は敢えて彼女の事を手癖が悪いと言った。それに気を悪くするどころか、彼女は嬉しそうに笑うだけだ。まるでそれが臨也なりの賛辞だとわかっているかのように。
「もう戻してあるよ」
「え?嘘?早くない?」
おどけた口調で臨也は言う。コートのポケットからバタフライナイフを取り出す。先程、万国旗が出て来た手品用のナイフ。パチンと音を立て折り曲げれば、今度は鈍色の刃が現れた。
「本当、手癖悪いよ、君。・・・気付かなかった」
悔しさが滲む言葉には曖昧に微笑んで見せた。その後に続いた嫌味はやって来た平和島静雄の荒々しい声に殆ど掻き消された。聞き取れてはいたが聞こえなかった振りをする。
「それじゃ、2人とも大怪我しないようにね」
ヒラヒラとが手を振り、少し離れた電柱の傍まで移動する。安全かつ観戦するのにちょうど良い場所で、彼女は背を電柱に預けて足を組む。これから何が始まるかわかっている筈なのに、彼女の目はまるで大好きなお芝居が始まる観客のように輝いていた。
それは、臨也の両手にナイフが握られようと変わらない。静雄が道路標識を抜こうと変わらない。臨也が静雄の服を切り裂く。静雄が自動販売機を持ち上げ、臨也に向かって投げる。ズウーン、鈍い地割れのような音がしようと、人々の悲鳴が聞こえようとの表情は変わらなかった。
「お疲れ様」
「・・・そういや、メールにはいつ帰って来るかは書いてなかったな」
ゆっくりとの前にやって来た人影に彼女は鷹揚に手を振る。片側の留め具が外れ、だらしなくぶら下がる黒の蝶ネクタイ。所々鋭利な刃物で切り裂かれ、肌に薄っすらと赤い線。見かねて止めに入ったサイモンと揉めている間に臨也は去って行った。まるでバイトの同僚に話すような気安さで、お疲れ、と残して。
「ああ、ちょっと野暮用があってね。情報掴まれる前にやっておきたかったから」
そう言っては臨也の消えて行った先を見つめ、悪戯っぽく笑って見せた。面白くない静雄は目元を歪ませ、不機嫌さを誤魔化すために煙草を1本取り出し、火を付けた。
「あの野郎とまだ付き合いがあるのか?」
「うん」
静雄の機嫌がわからないではない。それなのにも関わらず、はあっさりと臨也との関係が続いている事を認めた。
火がついて間もない煙草が2つに割れて静かに落ちた。
「いつからあの店、営業再開するんだ?」
「今週は引越しの荷物運びと、昔の常連さんに挨拶回りかな。再来週には開けるよ」
西洋の王宮を髣髴とさせる煌びやかな内装に、木目が美しいカウンターテーブル。池袋で色んな意味で名の知れた、露西亜寿司。店のカウンターの一角を陣取って、静雄はと話していた。
「・・・藍屋って鍵屋なんだってな」
「・・・誰から聞いたの?」
賑わう店内で静雄が小さく呟く。は驚く様子も困った様子も見せずに聞き返すが、静雄はその問いには答えずに冷酒の注がれた小さなグラスを傾けた。
「ま、池袋の裏に通じている人なら知ってるだろうね」
別に喋らなくても良いけどとは言わずに、はそう言って握りを口に運ぶ。
「元々藍屋は鍵屋だったんだ。ただ錠と鍵を売っていただけじゃなくて、鍵を無くした錠を開けたり、合鍵を作ったり色々やっていたんだ。・・・ま、少しばかり腕が良過ぎたお陰で色んな所から目を付けられて。初代藍屋の店主は犯罪に加担させられそうになって以来、修理業を表の仕事の看板にして裏で鍵屋を営むようになったのが始まり。今度の私で6代目かな」
「お前もやるのか?」
「やるよ」
「止めておけ」
「こればかりは無理」
顔を顰めて静雄は寿司を口に運ぶ。その様子はちっとも美味しいようには見えない。1個、また1個。次々に握りは静雄の胃の中に収まって行く。あっと言う間に静雄の皿は空になった――と思ったら、いつの間にか軍艦巻きがちょこんと2個並んでいた。
「お前、相変わらずウニとイクラ駄目なのか?」
「無理。シズ、頼んだ」
「仕方ねぇな」
仕方無さそうに静雄は言う。少しだけ嬉しそうに笑っているのに気付いているのだろうか。
「私がシズや臨也の傍にいるには、藍屋を継ぐ必要がどうしてもあるんだ」
大嫌いな名前に静雄の顔は憎らしげに歪むが、真剣な眼差しで語るを前に苛立ちを押さえた。しばし静雄は黙り、冷酒のグラスを空にする。
「お前が大阪に行ってたのと関係あるのか?」
「・・・鋭いね、シズ」
「普通に考えたらそうなるだろう?」
あれだけ一緒に居たのに。
そう呟いた静雄の目はどこか虚ろだった。顔がほんのり赤い。酔いが少しずつ回って来ているようだった。
「ずっと一緒にいたかったから、私は大阪に5年居たんだよ」
やっと傍に居られる。
そう語るの目もどことなく虚ろだった。
酒で零したの本音に静雄はただひたすら横に座る女の抱えている物の重さを推し量るように目を瞑るのだった。
オカエリネ、。
サイモンが自分の気持ちを代弁してくれている。静雄はそんな気がした。