シトシトと雨が降っている。雨足がゆっくりとその激しさを増して行く。
いつどこで買ったかも覚えていないコンビニの傘。雫を弾く透明なビニールの向こうには灰色の空が歪んで見える。明日も雨かもしれない。明日、仕事なのに面倒だ。仕事が面倒なのではない。傘を差すと言う行為が非常に面倒だ。片手が常に塞がっている状況をあの蛆虫が狙いに――。
そこで平和島静雄は顔を盛大に顰めて見せた。想像だけでこの顔だ。実際、本人に会った日にはきっと顔面の表情筋と言う表情筋を歪めるだろう。苛立ちを少しでも解消したくて、敢えて静雄はいつもの道では無く別のルートを通る事にした。公園を突っ切るルートを。
そこで、彼を待ち構えていたのは――。
「助けてって声がしたんだ」
藍屋1階。新旧様々の商品が並ぶその奥。レジの隣にファーストフードの店でよく見る小さなテーブルがある。4人掛けと思われるテーブルに椅子が2つ。その1つに腰を下ろした静雄はスチールのカップ。湯気がふわりと漂うコーヒーを1口飲むと、静雄は公園で起きた出来事を順を追って話し始めた。その話を実に辛抱強く藍屋の店主は聞いていた。
「―――と、言う事なんだ」
「そう、事情はとりあえずわかったよ。じゃあ、シズ、とりあえず・・・」
その子、元の場所に戻して来ようか?
爽やかな笑顔で、藍屋6代目店主、はそう言った。
「なっ!」
その言葉に静雄の表情が困惑と怒りが半分ずつ混じった物に変わる。よくよく見れば薄っすらとバーテン服の胸元が濡れ、薄っすら泥水の茶の染みが出来ていた。そして、腹の辺りには大きな毛玉。もぞりと動き、ニャーと鳴く。
「助けてってコイツ言ってるじゃねぇかよ!」
「いつから君は猫の言語を理解出来るようになったのさ」
「ついさっきだ!」
「・・・そう」
きっぱり言い切る当たり、実に清々しい。そんな感想を抱きながら、はコーヒーに口を付ける。
「大体、シズのアパート、ペット禁止なんでしょう?何で拾って来ちゃうの。いや、そもそも何で鳴いてる所に行っちゃったの?雨に濡れている小動物なんて見ちゃ駄目でしょ!見たら最後、色んな物が襲い掛かって来るんだよ。臨也ならともかく、シズが勝てる訳ないんだから」
臨也のところで静雄は反応し、全身から怒気が湧き上がる。野生動物の勘が働き、静雄の腹で丸まっていた猫が身を竦めた。
「ここで過剰反応しないの。子猫が怯えてるでしょ?」
「その名前を出すんじゃねぇ」
「ハイハイ」
静雄の怒りを華麗には無視し、説教をそのまま続ける。普段の静雄ならとっくにブチ切れている状況なのだが、面白くなさそうな表情で左手で肩肘を付き、右手で猫の背を撫でながら、話を聞いていた。それはまるで叱る母親と叱られる子供のようにも見えた。
「まったく。私は君の母親か?」
「同じ年の母親はいらねぇ」
「私も同じ年の息子は要らないね」
軽い冗談を交わすと、は静雄に寄り添う子猫を掴んだ。生まれてそう時間は経っていないのだろう。片手で軽々と抱き上げられた子猫は、静雄から離されたせいか、居心地が悪そうに身を竦めた。
「生後1ヶ月から2ヶ月ってところかな。母猫の姿は無かったんでしょ?」
「ああ。こいつだけダンボールの中に入ってた」
これくらいの、と静雄が手で大きさを表す。
「多分、メスだね。すぐに乾かして様子見たけど、風邪ひいてる様子もない。ノミとかダニとか、後はお腹の中の虫は動物病院行ってからかな。ああ、後はワクチン接種させないと」
苦虫を潰した表情では猫を一通り観察すると、すぐに静雄に手渡した。レジの横に常備しているメモ用紙を1枚破ると、ボールペンですらすらと何やら書き出した。書き終わるとボールペンをしまい、代わりに財布から1枚取り出す。
「とりあえず東急ハンズにペットショップあったから、このリストの物買って来て」
「お、おう」
「じゃあ、お願いね。私、まだお店あるから」
「あの・・・良いのか?」
遠慮がちに尋ねる静雄にが肩を竦める。
「そのつもりで連れて来たんじゃないの?」
「まぁ、そうだけど・・・」
静雄としてはそこまで考えていなかった。ただ目の前の猫が助けてと、そう言わんばかりに静雄の傍まで雨の中よろよろとやって来て、そして鳴き続けた。気付いたら抱き上げ、胸元に寄せると、行く予定だったこの店に連れて来た。先の事まで考えていなかった。それを見抜かれていたから、から説教をされたのだ。
「1度拾っちゃった以上、面倒見る物なんだよ。こういうのは。それにこのまま戻すのは後味悪いしね」
最初に戻せと言ったのは、何の為だったのだろうか。静雄にはそれがわからないが、結果的に目的は果たしたのだ。考える必要はないと判断して、それ以上は考えない。
「この子はここで飼うよ。里親募集とか・・・ちょっと無理そうだからね。同居人が欲しいと思ってたから、ちょうど良いでしょう」
よろしくと言うの手にはいつの間にやったのか、子猫の姿。
にゃーん。
実に良いタイミングで猫が返事をした。
彼女と俺の3つの約束
1つ、猫の名前は静雄が決める事
1つ、如何なる理由があろうと、猫はもう拾わない事
1つ、猫に会いにたまに顔を出す事
「あ、シズちゃん」
「え、静雄?」
「お、静雄」
東急ハンズの前で荷物を抱えた静雄に遭遇したのは、狩沢、遊馬崎、門田の3人。静雄の姿を確認し、久しぶりと声を掛けるものの、3人とも視線は静雄の荷物に注がれていた。
「シズちゃん、どうしたの?これ?」
「・・・頼まれた」
少しの間があったものの、静雄が答える。急ぐから。そう短く答えると別れの言葉と共に静雄は雑踏の中に消えて行った。
「にゃんにゃんトイレ」
「みんな大好き、子猫ちゃんミルク」
「・・・お前ら口に出してやるなよ」
喧嘩人形として知られる静雄にはまったく似合わない単語の数々。頼まれたと言っていたが、一体誰がこんな買い物を静雄に頼んだのだろう?門田はしばし思案し、答えに辿り着く。思い浮かんだ姿は高校時代の同級生の顔だった。
(こんな事頼めるのはあいつくらいだろうな・・・)
門田の感心する横で、他の2人が猫耳キャラの話をし始める。会話の濃度に押され、門田の頭からあっと言う間に同級生の事は消えて行った。