「ただいま。あぁ〜疲れたぁ」
「・・・・・・・・おかえり」
その間の抜けた台詞に、何か一言言おうと思って、結局止めた。
彼、猿飛佐助がここの家の主で、私はその居候に過ぎない。住む場所は他にもあったが、色々な諸事情でこうして彼の家に身を寄せて早三ヶ月。数日前に任務で出掛けた彼を出迎えたのは、今日が初めてだ。
思えば、今まで彼が任務に出かけても、数日後の日が昇る前には帰って来て、気配がするからと彼の部屋の襖を開けると、布団に横になっている彼を見るのが常となっている。襖の音に反応して振り返った彼が、眠たそうなトロンとした目で、おはよう、ただいま、と言うのが私達のいつもの光景。まぁ、そもそも彼は忍なのだから、部屋に近付く音で目が覚めているだろうけれど。
「随分、返事に間があったねぇ」
「この状況に突っ込んでみようかと思ったけれど、止めたの」
「珍しくこの時間に帰って来た訳だから、何か言ってみたら?」
「あー。うん。それなら、そうする」
そう言って、忍衣装の彼を上から下へ、下から上へ眺めて一言。
「やっぱりその格好で『ただいま、疲れたぁ〜』は無いと思うんだけどね」
目の前で人懐っこい笑みを浮かべる彼。彼の格好は迷彩柄の忍装束で、所々に血のような跡がついていて、激務の程が伺える。そして背景に燦々と輝く太陽。途轍もなく異様な光景だと思う。爽やかなのに、その召物さえなければ。
「いやぁ、今回の仕事厳しくてさ。もう俺様、疲労困憊」
そう言うと、そのまま体を預けるように、佐助が倒れ込むように抱き付いて来た。忍は身軽で無ければ話にならず、佐助も無駄が一切無い、私から見れば痩せた身体つきなのだが、それでも佐助は男で私は女だ。
「うわっ、重い!」
ぎゅっとしがみ付く様に抱き付いて来た佐助ごと倒れないように、足に力を入れて支えるように立つ。すると佐助は、いかにもこの状況を堪能してます、と言わんばかりに、腰と肩に腕を回し、頬擦りして来た。オレンジ色の髪の毛が頬を掠め、そのくすぐったさに目を細め身をよじれば、両腕でぎゅうぎゅう抱き付いて来る。そんな佐助を見てワンコみたいと思い、頭を撫でてみる。
「あぁ、癒されるなぁ」
私の肩から顔を上げた佐助は、いつもの笑顔とは別の、柔らかい笑顔で笑った。
忍は己を殺す事で生きる事が出来る人達だ。忍らしくないと自他共に認める彼は笑顔で居る事が多い人間だが、その彼ですら例外でなく、感情を殺す事はおろか己を殺す事にすら躊躇しない。だからこそ、その笑顔が見れて嬉しかった。つられて私も笑ってしまった。
埃一つ無い玄関に立つと、あの時の事を思い出す。を引き取って一緒に暮らすようになってからも、任務は次々に入ったあの頃。大将の屋敷の敷地内にあるこの家は、城下町以上に安全な場所ではあるが、任務の度に一人を残して行くのが心苦しかった。だから早く仕事を終えて帰ろうと頑張った。
今思えば、あの頃は死に物狂いで仕事をしていたのかもしれない。任務の報告を終え、身を清めて家に帰れば、まだ日の昇る前の時刻。顔見たさにの部屋に入れば、すやすやと眠り、まだ夢の中の愛らしい寝顔の彼女。その顔に癒され、自室に戻って布団に入れば、数刻もしない内に感じる彼女の気配が近付く感覚。布団の中でまどろむ振りをすれば、安堵の表情を浮かべた彼女が、おかえり、おはようと言ってくれるのだ。それだけで幸せだったのに、欲は募る。血に塗れ、汚い自分を見たら彼女はどんな顔をするのだろう。勝算が無い訳ではなかったものの、それは自分にとって大きな賭けだった。もしかすると彼女はもう俺を見て笑ってはくれない。ジクジクと心に出来た傷が痛む。
(今のままで良いじゃないか。それ以上何を望む。失う事が一番怖いのだろう、お前は?)
それでも彼女は、は、ありのままの俺を受け入れてくれる筈。否、受け入れて欲しい。ジレンマに葛藤され、ようやく決心がついた後、任務が終わった俺は、太陽が眩しい時間になるまで時間を潰した。そして日が燦々と輝く頃合になると、身を清めず服もそのままで家に帰ったのだ。
あの時の事は一生忘れない。玄関で出迎えた彼女は、呆れた表情で俺を眺め、おかえりと笑ったのだ。まったく曇りの無い笑顔で。それを見て、自分は受け入れられたのだと思ったのに・・・・・。
「長、こっちは片付きましたよ」
「ああ、ここを閉めたら・・・壊すか」
遠い未来から来た。そう語るがこの世界に現れたのは、木々が秋の訪れと共に色鮮やかに変わった頃。大将と真田の旦那の月見酒の護衛・・・・の筈が、来て早々、まぁ一杯と杯を渡す大将の誘いを断り切れずに飲んでしまったあの晩。三人で飲み比べをしてる最中、ふわりと宙に光が集まり、それが次第に大きな光となって。好奇心全開で真田の旦那が光に手を触れた瞬間、現れたのがだった。すぐに光は消え、残ったのは俺と年の変わらない女。突然の出来事に動揺のあまり破廉恥と連呼する旦那と(覆い被さる形で降りてしまったらしい)、かぐや姫のようなおなごだと笑う大将と。刺客かと忍刀を女の首に当てる俺が居た。
それから色々とあったものの、どこにも居場所が無いと言うに居場所を与えたのは俺。帰って来る度、出迎えてくれる幸せをくれたのは彼女。あの一件で、この幸せがずっと続くと思った筈なのに、は、現れた時と同じように突然光に包まれて消えてしまった。
ああ、帰ってしまったのだ。わかっていたのに。いつか彼女は帰ってしまう事を。
はもう俺の横に居ない。この世界のどこにも居ない。その事実が堪らなく痛かった。彼女との思い出のある家に居れば、思い出すのは彼女と過ごしたあの暖かい日々。思い出だけ胸に抱いて生きれる程、俺は強く無かった。自然と生活空間であった筈の家に居る事も減り、視界にあの家を映す事すら拒んだ。
なぁ、。俺は今、胸が痛い。どうしてこんな痛み俺に教えたんだ、アンタは。
居なくなった彼女を思い出すだけで、胸が痛い。それでも、胸が痛かろうが苦しかろうが、任務は待ってはくれない。こんなに苦しいのなら、見切りをつけて壊してしまえば良い。そう先日決め、今日実行しようとここに来た。準備は完了。後はこれに着火するだけ。それだけなのに。
「いざ破壊・・・・ってなると、どうしてこう切なくなるんだろうねぇ」
やるなら派手にやろうと思った。思い出は綺麗なまま、燃えて何の跡形も無く消してしまおう。己の中に残る人間らしい部分に呆れながらも、大将に許可を貰えばあっさり許可が出た。あの方には全て悟られているのだろう。忍、失格だと嘆息して、手元の縄に火を付けた。
ぽっ、とついた火は油の染みた縄に勢い良く移り、火は踊るように縄を伝わり走って行く。火は炎となり家に到達すると、全体を包み込むように燃え広がった。柱一つでも残さぬように。残ればまた胸が痛いから。ゴウゴウと音を立てる炎。バチバチと鳴る火の粉。ズンッと燃えて支えを失って崩れる柱。それらを一通り眺めた後、胸を押さえる。まだ痛い。いつ痛みは治まるのだろう。
「さてと、終わった仕事は直ちに退散・・・・ってね」
後の事は全て部下に任せてある。風も無く、周辺に燃え移る物も無い以上、他の物に燃え移る心配も無いだろう。これ以上居ても仕方が無いと思い、立ち上がると後ろから何者かが走って来る気配がした。
「あーあ、間に合わなかったみたいね」
「って嘘だろ?!」
これは炎が見せた幻なのだろうか。息を切らせて現れたのは、一年前に消えたあのだった。ぜーはーと呼吸が酷く乱れている。嘘だと思い、気配を探るが、間違いなく彼女の気配だった。呼吸を整えるべく、深呼吸する彼女。
「久しぶり。遅くなってごめんね」
久しぶりに見た顔は悲痛そうにグニャリと歪んでいた。きっと聡い彼女の事だ。自分が居なくなってからの事をそれなりに考えたのだろう。
「まさかもう一度会えるとは思わなかった」
「さすがにあんな別れ方は嫌だから・・・・ね・・・」
ぎゅっと俺にしがみ付く。抱き締めるとその細い体が小刻みに震えていた。
「最後に見た佐助の顔があんな泣き顔じゃ、元の世界に戻っても落ち着かなくて」
「それは俺も同じだよ」
「お互い様だね」
「ああ」
「家、燃やしちゃったんだ」
「まぁね」
聡い彼女はまたわかってしまったのだろう。ようやく元の端整な顔がぐにゃっと歪み、泣きそうな顔になる。宥めるように頭を撫でれば、堰を切ったように彼女はボロボロと泣き始めた。思えば彼女が泣く所を見たのは初めてだ。
「あ、こら、、泣かない。折角また会えたんだからさ」
泣き止むまで髪を撫でれば、一頻り涙を流した後、は真っ赤な目で俺を見上げる。まだ涙声のままであったが、彼女は涙の跡を頬に残したまま、笑顔で言うのだった。
「ただいま、佐助」
「おかえり、」
胸に広がる暖かな感情。あれ程痛みを訴えていた胸は、穏やかな気持ちと共にまたゆっくりと鼓動するのだ。