【これからもよろしく】
クレアは耐えていた。
左手はの顎を捉えている。赤い顔を覗き込むように近付ければ、は体を強張らせ更に顔を赤くした。その初々しい姿にの全てを自分の色に染めたいという欲求に駆られるが、自分を好意的に見てくれる女に無理強い出来る筈が無く、クレアは何とか後一歩と言う際どい所で止まる事が出来た。
「ああああ、あの、すいません。こういうの初めてでして・・・」
熟れたトマトのように真っ赤に顔を染めたがどもりながら謝罪を口にする。しかし、その言葉すらクレアを煽る事にしかならなかった。
(嬉しいけど、辛い。)
今すぐの唇を奪えたら、どんな甘い味がするのだろう。考えただけでゾクリと背中が粟立つが、その誘惑を抑えてクレアは何とか踏み止まった。
「返事、出来そうか?」
クレアが問う。は相変わらず赤い顔のままではあったが、表情を真面目な物に変え、クレアと向き合った。じっとクレアの目を見た後、は尋ねる。
「一つだけ聞かせてくれませんか?」
「何だ?」
「どうして無抵抗のまま、落ちたんですか?」
の問いにクレアが今までの経緯を話し始めた。
線路の影をなぞる者、レイルトレーサーとしてクレアは乗客に害を為さんとする者を『狩った』。が見た貨物室の惨劇もクレアの手によるもの。大量の血。切り裂かれた死体。怪物がまるで食い散らかしたような凄惨な光景は、真っ当な神経の者なら直視できないものだが・・・。
(何なんだろうな。こいつは。)
苦笑いを浮かべクレアは前髪をかき上げる。少なくてもは好んで人を殺す類の人間ではない。だけど、人を殺し返り血を浴びたクレアを嫌悪の眼差しで見る訳でもない。クレアが同僚と偽車掌を殺したと言った時も、レイルトレーサーとして人を殺した時もは平然としていた。
酷く矛盾した存在だ。血に慣れ人の死に慣れている癖に、殺したくないと言う。けれど、クレアはに自分が受け入れられている気がした。
「・・・で、あいつが火炎放射器持った黒服のボスっぽい奴を倒した所に俺が来てしまった訳だ。乗客を脅かす奴らはもういないから、怪物は怪物らしく去ろうと思ったんだよ」
「あいつ、良い目してたからな」とクレアが付け加えて言えば、
「・・・ありがとう」
と、が嬉しそうに言った。
「一緒に来るか?」
手を差し出す。不安と期待がごちゃ混ぜになる胸の内を悟られないよう、表情を取り繕う。今まで犯した殺しの時は勿論、前職のサーカスの舞台でもこんなに緊張した事は無かったと思う。それでもこの気持ちを表に出す事は、クレアの矜持が許さなかった。
ドクンドクンと鼓動が高鳴る。耳に響く。
(そんなに鳴るな。ばれたら恥ずかしいだろうが。)
ドクンドクン。喉が急に渇き出す。コクリと喉を鳴らせば、緊張しているのが悟られるのかもしれない。クレアは生理現象すら押し留め、の反応を窺った。
差し出した手に熱が重なる。うっすらと頬を赤く染めたは差し出されたクレアの手を握っていた。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
その言葉に歓喜したクレアは、の体を強く抱き締めた。歓喜のあまり加減が出来なかったせいで、盛大に咽たの背中をクレアが優しく擦る事になったのは言うまでもない。
【名無し】
プロポーズの返事の後にしては随分とムードが無い。いや、あったのだが自分がぶち壊してしまった。
は強すぎた抱擁に耐え切れずに咽てしまった己の不甲斐無さを嘆きながら、眦に溜まった涙を指で掬った。定期的に咳き込んだ喉はようやく落ち着きを取り戻した。
「あー、悪い。大丈夫か?」
背中を優しく擦るクレアに頷く。が落ち着いたのを確認すると、クレアはの手を掴む。促されて移動した先は車掌室。開けっ放しの窓から見える景色はもうじき橋に差し掛かろうとしていた。
「降りるぞ」
その言葉に頷き、緊急用の扉から外に出る。するとふわりと足が宙に浮く。絵本で出て来る姫が王子に抱きかかえられる様にされ、が驚いている間にもクレアは俊敏に動き、車掌室に何かを投げ付けた後、床を蹴って列車から飛び降りた。
閃光、そして爆音。
爆音と共に背中に襲い掛かる爆風にも、列車から飛び降りて着地した衝撃も物ともせず、クレアは飄々とした表情で列車を見送ると草の生い茂る大地を蹴った。
常人では有り得ない速さで走るクレア。は抱き上げられたままの体勢だ。
「私も走りますよ」
「いいから、もうすぐだ」
(もうすぐってNYまであと80kmあるじゃないですか!)
押し問答が続く最中。不意にある事に気が付いたは、しばし考えてみるものの答えが出ず、直接、クレアに尋ねた。
「クレアさんは車掌だったのよね?」
「クレア、な。元車掌かな、今は」
「爆発で死亡した事になりますね?」
「まぁ、死亡した方が都合が良いからな」
「結婚する際、手続きどうしましょう?」
そこでようやくクレアは大きく口を開けて、顔を顰めて空を仰いだ。走る足も自然と止まる。一通り唸った後、「戸籍買うしかないよな」とポツリと漏らした。
「買えますけど、折角名前覚えたのにまた覚え直しですね」
からかう様に口にすれば、少し困ったように笑いながら
「どんな名前買っても、ずっとクレアって呼んでくれ。お前にはそう呼んで欲しい」
と、クレアは言った。その言葉に頷くと、また景色が動き出す。
走るクレアに抱きかかえながら見た朝日は、今まで見た朝日の中で一番眩しい物だった。
Aルート FIN