意識を取り戻して最初に目にしたのは、灰色の剥き出しのコンクリートの天井。ポツンと1つ小さな傘の形のような照明が吊り下がっていて、白熱灯のオレンジ色が申し訳程度に室内を照らしている。何とか室内の様子がわかる程度だ。
ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、身を起こそうとするが、背中に走った鈍い痛みに再び床に転がる羽目になった。
「あ、痛たたたた・・・」
口にする事で少しでも痛みを誤魔化そうと本能が動いたのだろう。口から勝手に言葉が漏れる。言った所で痛いものは変わらなく、何一つこの状況が変わる筈など無かったのだが・・・。ふと横から掛けられた言葉に、痛みで身を捩っていた私は一瞬にして硬直してしまった。
「大丈夫?」
硬直した直後に、記憶がパラパラと本のページを捲るかのように思い出される。心配そうに覗き込んで来た顔は、つい最近、写真で見た男のものだった。
「あ―――、ちょっと現実逃避して来ていい?」
私の言葉に、男は心配そうに下げた眦をゆるりと緩め、困ったように笑った。
「駄目」
笑顔で言い切られた私の脳裏に、『詰み』の2文字が浮かんだ。
私、が何故こんな状況に陥ったのかと言うと、始まりは数日前に遡る。誰がどう見ても平凡な女子高生にしか見えない私だが、ちょっと妙な特技を持っていて。その特技――情報収集能力で調べて欲しい事があると、時折、幼馴染達から頼まれ事をするのだ。幼馴染達は喧嘩上等なチームに所属していて、調べる内容は専ら喧嘩相手の情報ばかり。喧嘩相手は男で、私は女な訳で。どう見てもストーカー女です。ありがとう・・・なんて言わないよ。そんな訳で情報収集の際は、常に男の格好だ。帽子にゴーグルを掛けて素顔をも隠してる。ついでに偽名なんかも使っている。、本棚にあった漫画から適当に取った名前だ。ここまでするかー?なんて幼馴染の何人かに言われたけれど、喧嘩相手に素性がばれたら不味いにも程がある。気づいたら毒蛾の参謀なんて呼ばれてたよ。私は毒蛾に入った覚えないんだけどなぁ・・・。超絶、解せない。
そりゃね。手伝わなきゃ良いって思った事もあるよ。女だし、弱いし、喧嘩嫌いだし。喧嘩になったら、逃げるしか無いし。逃げ足には自信あるけどさ。事ある毎にからかって来る、宗春の相手は面倒臭いし。デメリットの方が圧倒的に多いけど、止めるに止めれない事情もある。
仮に毒蛾が他のチームに苦境に追いやられたら、間違い無く宗春の自宅前には柄の悪い男達が押し掛けて来るだろう。毒蛾を作って間もない頃は、散々敵対チームの人間が押し掛けて来るものだから、隣のアパートに住む私もその煽りを食らって睡眠不足に陥ったものだった。か弱い振りして、警察に何度も電話して、お引取り願ったけど。今年は私も受験だから、そんな目には遭いたくないので、学校の合間に出来る範囲で手伝ってたのだけど・・・。
まさか今回ドジを踏むとは思ってなかったなぁ。
後輩連中は、宗春や洋次、他の幹部連中に憧れて入った・・・というパターンが1番多い。そんな毒蛾の中で、私の評価は賛否両論。事情を知る幼馴染達、つまり幹部連中からの評価は高いが、事情を知らない後輩連中からしたら、喧嘩から逃げる弱い奴と評価が悪い。喧嘩上等な血の気の多い人間ばかり揃っているので、強い奴ほど尊敬されるという評価基準なのだ。仕方が無いと言えば仕方が無いし、そもそも毒蛾入りした覚えが無いので、見下される覚えも無いというのが正直な所。そんな後輩連中の中にも変わり者はいたらしく、参謀と呼ばれる私に憧れて入った奴が居た。脳味噌まで筋肉、略して脳筋ほど、私を見下す傾向にある中、そいつ、峰倉は毒蛾の中では頭の切れるの人間だった。入ったばかりにも関わらず、情報担当の1人に抜擢され、洋次から直接指示を受けていて、次期はまだ無理かも知れないが、3代目毒蛾が結成されるとしたら、洋次のポジションに収まるのではと期待されている男である。ただこの男、1つ大きな問題を抱えている。変装した私、毒蛾の参謀の異名を持つが絡むと、一気に視野狭窄に陥るのだ。その事は洋次にも言っておいたのだが、峰倉の普段の動きを見て改善されたと思い込んでいたのだろう。武装との決戦日も決まり、安生に戻った峰倉から報告を受けた際、洋次がぽろりと口を滑らせた。
が戸亜留市に別件で行く事を。
それを聞いた峰倉が安生で大人しくしている訳がなく。私――の手伝いをするために、峰倉は再び戸亜留市に足を踏み入れたのだ。既に武装との決戦日は決まっていて、互いに情報担当を引き揚げている状況下。ここに毒蛾の下っ端が、のこのこと武装の本拠地に足を踏み入れたらどうなるか。聞いた限りでは、礼儀知らずとして扱われ、強制的に追い出されるらしい。峰倉とは別の情報担当から話を聞いた洋次は、慌てて私に連絡を入れた。
『峰倉を安生に送り返せ』、と。
どうやら峰倉は武装の一部に顔が割れているらしく、その状態で単独で敵地で動くには明らかに実力不足だ。連れ戻そうにも他の毒蛾連中を送り込む訳にも行かず、致し方無く私に話が来たので、急いで合流したのだが、余計な物を一杯引き連れていた。革のジャケット。どの背にも髑髏のマーク。少なくても10人は居るだろう。毒蛾の新人に良くこれだけの人間を裂いたと思うべきか、それともそれだけの怒りを買ってしまったと思うべきか。路地裏の一角に現れた黒い群れ。つけられた事にようやく気付いた峰倉が顔を引き攣らせ、後ろに数歩仰け反った。それを見て、こりゃ駄目だとこの状況に見切りをつけた私は、さっさと峰倉だけを逃がそうと考えていると・・・。
「1人は毒蛾の情報役だろ。隣の奴、誰だ?」
「格好から考えて、毒蛾の参謀、だと思う」
武装側からこんな会話が聞こえて来た。聞いたのが、奈良明。武装の大幹部の1人。答えたのが、藤代拓海。武装の副頭。その傍らに立ってこちらを無言で見ているのが、頭の村田将五。奈良の横には同じく大幹部の金亨寛。武装の主力がほぼ揃っている所を見ると、どうやら峰倉は余程大きな地雷を踏んだらしい。
「峰倉、さっさと逃げろ」
「でも、さん!」
「良いから行け!この状況で足手纏い抱えていたら、流石に俺も動けねぇって」
ここまで言っても動かない以上、強硬手段に出るしかなかった。動かない峰倉を奥に蹴り飛ばした。路地裏を突き抜けて、転がった先は車道に面した大きな道路の歩道。あちら側にまで武装側の人間を配置されていれば、峰倉はあっさり捕まってしまうが、駆け出して行く足音を聞く限り、杞憂だったようだ。最も土地勘のある武装相手にどこまで逃げれるか。峰倉が逃げれない可能性の方が高いのだが、それでも先に逃がして時間稼ぎをしてから私も逃げるプランが1番成功率が高い。私?勿論、逃げるよ。自己犠牲なんて趣味じゃないからね。
首、手首、足首を軽く回して動く準備に入る。格好でだとわかった時点で、喧嘩は一切せずに逃げる奴だという事も伝わっているだろう。背を向けずに正面から見据えれば、1対1のタイマンだと思ったのか、頭である村田将五が前に出た。わざわざ頭自ら出て来るって辺り、が逃げずに立ち向かった事に敬意を表しているのか。そうだとしたら凄い申し訳ない。身を低くした私に対し、村田も拳を構える。アスファルトを蹴った私に対し、村田は殴りかかるが、その拳は宙を切った。手も足も長い村田のリーチは確かに長いが、こちとら更にリーチの長い宗春を長年相手にしているんだ。手足が長いのがなんだ!長いから掴まれるなら、その長さでも掴めない程、身を低くして動けば良い!!今までの間に培ったバランス感覚と、体の柔軟性、そして瞬発力。この3つがあれば、余裕で死角に入り込める!
「あ゛?」
背後で物凄く間の抜けた、それでいてドスのきいた声が聞こえた。だが、私は振り向かない。死角を突けば、村田は殴れる。だが、私には村田を倒す程の有効打など存在しない。先程、峰倉を蹴り飛ばせたのも、相手が完全に油断しており、腰が後ろに引けていたからだ。そんな訳で村田の死角を突き、観戦していた他の武装の死角も突いて、黒い群れから抜け切った。一拍の間の後、ドスのきいた合唱が背後から聞こえるが、構わずに逃げた。逃げ切るつもりだった。
その後、どうなったかと言えば、土地勘が無いので途中で挟み撃ちにされる。傍のビルに逃げ込む。武装の追っ手を振り切る。体力が続かず、一旦、適当な部屋に入って体力を回復しようとする。入ってすぐに後ろから強い衝撃。吹っ飛ばされて、壁にぶつかる。痛みで意識が徐々に保てなくなる。と、ここまで何とか覚えているのだが、状況から察するに、吹っ飛ばしたのは横にいる武装の副頭。ゴーグルが壁にぶつかった衝撃で外れたのか、それとも横の男に取られたのかわからないが、ばっちり顔は確認されて――私が女だという言葉ばれたのだろう。冷たい床に転がすのは気が引けたのか、彼の革ジャンが私の下に敷かれていた。
ドアの向こうから人の気配は感じない。おそらくは彼が引き上げさせたのだろう。峰倉が捕まったのならば、そちらに人員が裂かれたか。それともこれからやって来る毒蛾の襲撃に備えて動いたか。
「はぁ・・・これからどうしようか?」
この場の主導権は、武装の副頭である藤代拓海に完全に握られていた。万全ならばここから逃げ出せるが、体を起こしただけで体が引き攣る程、ダメージを負った状態では流石に無理だ。救いと言えば、藤代が女には不自由していない事。武装の面々が毒蛾同様、下卑た考えの人間がいない事くらいだろうか。
「そうだね。どうしたい?」
主導権を持ちながらわざわざ聞いて来る辺り、流石、武装の副頭と言った所だろうか。色んな意味で良い性格をした人間でなければ、副頭など務まらないのは洋次を見ていれば良くわかる。
「とりあえず国吉に電話かなぁ・・・。折角、決戦日決まったのに、前倒しでこっちに全員で押し掛けるのもね」
「ああ、確かに他の奴らならともかく、君の場合は確かに押し掛けて来そうだ」
「そちらも都合が悪いなら、電話して良い?」
「良いよ、ほら」
ほら、と言って藤代が差し出したのは、見覚えのある携帯電話だった。どうやら気を失っている間に取られたらしい。下手に連絡取られると不味いと思って取り上げたのか?・・・ロック掛かっているから、良いけど。
ロックを外して、洋次に電話する。コール数回で洋次は電話を取った。
「もしもし?」
「か!」
「うん」
「ぶ、無事か?」
「一応、無事」
ここまで焦燥した洋次の声は初めてだ。とりあえず峰倉は洋次と連絡は取れたらしい。
「峰倉はどうなった?」
「ああ、無事だ。・・・いや、無事じゃないな」
「どっちよ?」
「何とか回収は出来たんだが、お前を危機に追い遣った罰を宗春達から受けてる」
「あー、しっかり教育しておいて。あいつも将来毒蛾の中心格の1人になるだろうからさ」
「ああ。・・・それよりもお前、武装の連中に追われて本当に無事だったのか?」
その洋次の声に横に居る藤代をちらりと見る。にこりと意味有り気に笑う様が何とも憎らしく感じる。
「あー、肉体的に無事なだけであって、武装に捕まった」
その直後、携帯の向こう側から大声が響き、咄嗟に携帯電話から耳を遠退けた。
『それは無事って言わねぇ!!』
「・・・それで今どういう状態なんだ?正直に言えよ」
「あー、逃げ切れなくて、不意打ち食らって痛みで気絶?起きたら武装の副頭さんが1人でいた。決戦日前に毒蛾全員で戸亜留市に乗り込むのは不味いから、洋次に連絡取って良いか聞いたら、許可出たので電話した所」
「・・・気絶って体も無事じゃねぇじゃねぇか」
「いや、まぁ、歯が折れてもいないし、骨が折れた訳でも無いし、血も吐いてないし。精々背中が痛い程度?ちょっと起き上がると痛いから床に転がってるけど」
「・・・転がってるって!・・・おい、。藤代の野郎が傍にいるだろう?ちょっと電話替われ」
「替わるのはいいけどさ。私が蹴られた云々の恨み〜とは言わないでよ」
「それじゃあ、俺の、俺達の気が収まらない」
「別に収まらなくて良いよ」
「おい、!それは聞き捨てならねぇぞ!」
「あのね。私の事を喧嘩で出されたら、間違いなく、副頭さん、無抵抗で殴られるよ」
「うっ!」
「昇もそうだし、忍とか日出男、それに洋次やあの宗春ですら、知らなかったとは言え、武装関係者の男だと思って殴った相手が女だったら、侘び入れに間違いなく行くでしょ?相手の気が収まらないなら、収まるまで殴られるでしょ?長年、あんた達とつるんでいたんだから、私もそれくらいわかる。ただ、私の事を考えてくれるなら、私を出汁に喧嘩はして欲しくない。私怨関係無しに、どっちが強いか戦って決めて欲しいんだ」
「・・・」
「まぁ、そもそも私、喧嘩嫌いだからさ。私を間に挟むな。あんたらだけでやれって、ぶっちゃけ思います」
「・・・折角の台詞が今ので台無しだぞ、お前」
「いや、私のキャラじゃないと思って」
呆れ返る洋次に頃合かと思い、電話を藤代に替わると告げる。差し出された携帯を受け取ると、藤代の顔が初めて会った時の物に一瞬で変わった。先程まで私と喋っていたのが素の状態だとしたら、今の状態は言うならば副頭モードという奴なのだろう。使い分け出来るとか器用な男だと思ったが、という実在しない人物になりきっている時点で、
私も似たようなものなのだろう。副頭同士、何を話しているのか、藤代の会話から想像しているうちに瞼がだんだん重くなって行く。電話は終わらない。やる事も無い。そして逃げれない。無い無いだらけの私は、5分だけと重い瞼を閉じた。