安生市は自分にとって最高の環境だと前川宗春は思っていた。


喧嘩っ早い人間がとにかく多く、昔から喧嘩の相手には欠かす事は無かった。同じ団地内で育った幼馴染も、とにかく血の気が多く、喧嘩の誘いをする事もされる事も日常茶飯事だった。小学校の頃は幼馴染とつるんでいれば良かった。それが変わったのは中学校に入ってからだった。勉強が難しくなったと思う頃、宗春は小学校時代、上級生だった先輩達から勧誘を受けるようになった。一個上程度なら面識もあるが、それ以上となると宗春も覚えて居ない。そんな顔も覚えていない相手からの誘いに、宗春は返事を保留にし続けていた。従っても良いと思える相手が居なかった訳では無い。ただ、どうせ短い青春時代を過ごすならば、己の理想の男の下に付きたかった。心の底から震え上がるような歓喜と恐怖を与えてくれる男に。残念ながら宗春はそんな男と出会う事は無かった。


「あんた自身、自分の理想に近付こうとしているから、どうしても上に付く相手にはそれ以上を望んでしまっているからね。正直、難しいと思うよ」


そうバッサリ自分の僅かな期待を切り捨てるように言ったのは、幼馴染のだ。鬼塚団地には幾つもアパートの棟があるのだが、同じ棟の同じ階に住んでおり、両親同士も仲が良いので昔から何かと一緒に居た相手だった。最も中学校に上がってからはお互いを取り巻く環境にウンザリして、昔馴染みの前以外では殆ど喋らなくなってしまったが。


「そんな事は無いだろ」
「一対一であんたに勝てる中学生、何人居ると思っているの?」


否定した自分にまたもバッサリ、だ。付き合いが長いせいか、は宗春に容赦が無い。そんな所を気に入ってしまっているのだから性質が悪い。そう宗春も自覚していた。


の指摘通り、正々堂々のタイマン勝負ならば、宗春に勝てる中学生はほぼ居ないだろう。居たとしてももうじき卒業の先輩達ばかりだ。生まれる前に鬼籍に入った祖父がとにかく背の高い人で、その遺伝子を受け継いだ宗春も留まる事無く身長が伸び続けて居た。恵まれた体型に恵まれた運動神経。そして血の気の多さ。喧嘩をする為に生まれて来たのでは無いのかと思った事も1度きりでは無い。


「鬼塚周辺のチームはあんたの返事待ち。他地域のチームは下手にあんたがチームに入って敵対されると困るから、チーム全体であんたを潰しに掛かる事はまず無いよ。個人や数人で来る可能性はあるから、警戒しておくに越した事はないけれど。どうせあんたもチームに入ったら高校卒業まで喧嘩三昧なんでしょ?それならまだ時間はある訳だし、じっくり考えなさい」


相談ならいつでも乗るから。そう笑ったに、何でお前、男じゃないんだろうなとつい口が滑り、思いっきり宗春は頬を抓られた。




「おーい、大将。何、黄昏ているんだー?」


ビール片手に宗春に話し掛けて来たのは、幼馴染の畑日出男だった。宗春とは階は違うが同じ棟に住んでいて、昔からつるんでいた仲間の1人だ。


「チームを立ち上げる前の時の事を思い出していたんだ」
「中1か中2の時か?」
「そのくらいかな」


まだ日が完全に落ちていない時間帯。このバーに居るのは宗春、畑、高城忍、吉田瑞穂。毒蛾結成時からの男ばかりだった。


「あの頃のお前は何か悩み事があるとン所に持って行ったからな。ちょっとは俺らも頼れよって何度思った事か」
「ま、仕方ねぇだろ。あの頃の宗春はにべったりだったからな」
「今も対して変わらねぇんじゃないか?」


あっはっはと笑う幼馴染達に宗春は苦笑を漏らす。べったりくっ付いて行動していたのは小学校の頃までだが、精神的に依存していると自覚したのは中学に入ってからだった。


「ってか、それ、お前らにも言えなくねぇか?」


宗春の問いに幼馴染達は互いに顔を見合わせた。ダメ押しの一言を前川は言う。


「ここを溜まり場にしてるって時点で、俺もお前らも対して変わらねぇだろうが」


ダイニングバー、Jammin。通称、Jm。テーブル席が2席に、カウンター席が数席。こじんまりとした店だが、オーナーはの父親。店長はの従兄。時々も店に入り、しかも飯が美味く、何かとオマケして貰える。そんな店を幼馴染達が通わない筈が無く。安生鬼塚E..M.O.Dを結成して2年経った今では、幹部の溜まり場と化していた。


「宗春ほどじゃねぇよ」
「ああ」
「そうだな」


幼馴染達は認めながらも、宗春ほどでは無いと否定した。


「でも、がいなかったら、俺達も笑いながら喧嘩三昧の日々なんて無理だったンだろうな」
「違いない」


畑の言葉に忍も同意する。


「そう言えば、あいつ、今、影でなんて呼ばれてるか知ってるか?」
「前は安生の裏番長だったよな」
「裏番長って何だよって感じだよな」
「いや、あいつ、高校行ってるから意外と合ってるんじゃねぇ?」
「で、今のあだ名は何なんだよ?」
「安生の魔王だってよ」
「おー、あいつも出世したなー」
「しかし、何で魔王なんだ?」
「いや、それがよ。前に駅前のカラオケで紅蓮(レッドロータス)の下っ端が暴れて店員に迷惑掛けていただろ。あの件、起きてすぐに紅蓮の頭の笹川にあいつの部下から連絡が行ったらしくてな。笹川が幹部らと一緒に速攻で沈めたらしいわ。そのあまりの情報の早さと内部事情の詳しさに紅蓮の奴ら、相当びびったらしくてな。あいつは人間じゃなくて魔王か何かだ!って言ったのが大本らしいぜ」
「あっはっは、遂にあいつ、人間辞めたか」
「誰が人間を辞めたって?」


不意に落ちて来た言葉に幼馴染達は息を飲んだ。付き合いが長いからこそ、その怒りの度合いがわかるというもので。内心それ程怒っては居ないが、幼馴染達をびびらせる程度の怒りを装っているのだろう。それを瞬時に読み取った宗春は肩を竦めてみせた。時間的にそろそろやって来るだろうと踏んでいたので、異名の話が出た時から宗春は一切喋っていなかったのだ。口は災いの元とはよく言ったものである。とは言え、流石にこのまま放置しておくのは幼馴染達があまりに可哀想だった。どうせSOSが飛んで来るのだから、飛んで来る前に先に宗春は動く。


「よぅ、
「日も高いうちから良く来るわね」
「仕方ねぇだろ。夜はここ混むんだから」


Jmの収容人数は少なく、20人も入れば満席だ。常連客も多く、宗春達と顔見知りな客も多いが、揉め事や度を超えたバカ騒ぎは厳禁とされ、出入り禁止を食らった客も多い。他の客が居ない日の高い時間ならば多少は目溢しされるので、大抵宗春達は客の居ない時間帯を狙って来店していた。


「異名はデカイに越した事は無い。異名がデカけりゃデカイ程、お前に手を出すバカも減るからな」
「誰のせいでここまで大きくなったと思っているのよ」
「あー、俺?」
「7割、あんただ」


安生市鬼塚地区の正体不明の情報屋。それがの裏の顔だ。情報を制する者が戦場を制する。が常々言っている言葉だったが、結成して2年の宗春の作ったチームが無敗で居られたのは、その情報の力が大きい。何せ安生には昔からのチームが多いのだ。先程出て来た紅蓮の今の頭は四代目、長い所では二桁代替わりしているチームもある。出来たばかりの少数精鋭のチームは格好の的で、襲撃もざらだったが、その殆どをは事前に掴んで宗春に流していた。宗春の取り巻く環境が喧嘩するのに最適と言うのなら、の取り巻く環境は情報収集するのに最適と呼べる。おそらく宗春がチームを結成したら、こうなる事は予測していたのだろう。は宗春の、幼馴染達の為に躊躇しなかった。その正体をどこまでも隠滅し、噂だけが一人歩きし、付けられた異名は年々大きくなっていった。その結果が安生の魔王である。


「でもよー。お前のお陰で助かってるんだぜ。俺達もそうだけどよ、妹がすげぇ喜んでいるんだわ。鬼塚地区に正体不明の魔王がいるから、鬼塚地区に住んでるって言うだけで学校の不良連中からちょっかい出されずに済むってよ」
「あー、お前ン所の妹、可愛いもんなー」
「そう言ってくれると嬉しいよ」


機嫌を直したに幼馴染達がほっと息を吐く。よく見る光景の1つだ。


「そう言えば、双頭龍(ダブルヘッズドラゴン)の頭が変わるらしいよ」


何の気無しにが仕入れたばかりの情報を口にする。店内に正体を知る幼馴染達と従兄しか居ないからだろう。その入手速度は恐ろしく早く、おそらく過去のケースから推測するに、双頭龍でも幹部連中しか知らない情報に違いない。その情報をあっさり仕入れて来るのだから、敵に回ったら心底恐ろしいと宗春は思う。最もがここまで成長したのは宗春のせいなので、と万が一敵対する羽目になるくらいならば、この世界から身を引こうとすら宗春は考えていた。


「ほぉ。後任は後藤か?」


今の副頭の名前を畑は挙げるが、は否定した。


「副頭も揃って引退。後任は幹部の美川利実」
「あー、あいつか。俺、あいつ、嫌いなんだよね」
「ああ、俺もだ」
「兵隊増やせば良いって考えの奴は嫌いだからなぁ」


酷評される双頭龍の次期頭を宗春も思い出すものの、にやけた顔がぼんやりと思い出される程度の認識しかなかった。大して強くも無い。向こうから喧嘩を売られない限り、わざわざ自分がチームが動く必要は無いと考えていた。


「向こうの次の頭にしろ、副にしろ、幹部にしろ。対して強く無いからね。わざわざあんたらが動く必要は無いと思っていたんだけど、もしかしたら動いて貰うかも」
「お?何だ?の頼みなら大概の事は聞くぜ」


嬉しそうに瑞穂が言う。普段世話になりっぱなしなので、頼られるのが嬉しいのだ。それは瑞穂に限った話では無く、高城も畑も嬉しそうに頷いて見せた。


が気に入らねぇ連中は俺も嫌いだ」


の敵は自分の敵という身内意識も強いが、それ以前に同じ環境下で育っている為、幼馴染同士の好き嫌いが似ているのだ。宗春の言葉にも笑う。


「裏は取れてるんだけどね。どうせならこちらの言い分が通じる状況になってから動いて貰おうと思っているんだけど、どうも双頭龍の美川があちこちの中学生チームに声を掛けまくっているの」
「ガキをチームに入れる気か?」
「気に入らねぇな」


の情報に幼馴染達がいきり立つ。も苦笑しながら続きを話した。


「美川は今、21歳。正直、良い歳した大人が何やってるのって感じなんだけど。どうせならやるなら、今後、こんな馬鹿馬鹿しい事を考える人間が出ない程、徹底的にやって貰おうと思ってね」


にこやかに笑うだが、喋っている内容は抗争慣れしている幼馴染よりも残酷なもので。それを見て笑う宗春も幼馴染達も充分凶悪で。安生鬼塚E.M.O.D。その名前は安生の魔王の名と共に止まる事を知らず、勢いを増して行くのだった。