喧嘩をした事が無い素人。しかも女が喧嘩しなれた男の拳を受け止めるのがどれだけ無謀な事かは身をもって知る事になった。
左手首の打撲により、従兄でもある店長に治るまでバイト禁止令が出た。長々とした説教の後に。卵が駄目になると言っただったが、半ば無意識に庇ってしまった事など付き合いの長い従兄や幼馴染の目から見ても明らかで、無意識に動いてしまう人間ほど危ない目に遭い易いと理解している彼らは普段は打算的に動く幼馴染を説教した。これでもかというくらい、念を押され、自業自得だと理解しているは神妙な面持ちで頷き、痛いのでもうしないと繰り返した。
「え?亜希と真希を向こうに送り込んだの?」
「ああ、昨日の夜にこっちを発った」
左手首に包帯を巻いたの代わりに宗春が包丁を握る。その手付きに危うさは無い。
「あの2人ちゃんと話を聞かない所があるから怖いんだよね」
武装以外にも喧嘩売りそう。過去に何度か座黒兄弟に振り回された事のあるは手元の鍋をかき混ぜながら遠い目をした。
「ま、別に他に喧嘩売ってもあの2人なら返り討ちだろ」
「毒蛾でもあの2人勝てるの片手で数えられるからね」
常雄達よりはマシかと呟くに宗春はお前の判断基準がわからないと返した。
「ところで日出男達の客は動いたのか?」
「うん。・・・もうそろそろ会うんじゃない?」
壁に掛かった時計をは見る。窓から見える外の風景はまだ明るかった。
「よしっ。全部切ったぞ」
「ありがとう。右手は大丈夫だけど、この手じゃ具材押さえれないからさ」
「ったくよー。洋次から聞いたけど、お前も無茶するよな」
「ごめん。・・・つい、ね」
「おぉ〜。何だぁ〜。聞いた所によると、そのフジシロくんって言うのはかなりの美少年らしいじゃん。惚れたか、」
「それは無い。どっちかと言うと警戒してるよ」
「お前の事を調べろって武装の下っ端に指示出したのも、そのフジシロくんだったか?今まで俺らの喧嘩の時にお前まで調べられた事無かったから、聞いた時には驚いたぜ。イケメンで喧嘩も強くて頭も切れる。しかもJmに涼しい顔で1人やって来たんだろう?根性入った良い男じゃねぇか。俺ほどじゃねぇけど」
「宗春は考えなきゃいけない事、洋次や私に投げてるけどね」
「良いんだよ。俺には頭の切れる右腕と幼馴染がいるだから」
「まったく、あんたは人遣いが荒い」
にかっと笑った宗春には僅かに苦笑する。の照れ隠しなのは宗春にもわかっていた。
「おっ。俺、ちょっと国吉に呼ばれてたんだ。ちょっくら出て来るわ。飯の前には戻る」
「了解」
「今日、好誠さんも来るから」
「呼んだの?」
「決戦の日、決まっただろ?あの村田将五との喧嘩だ。無傷って言うのは流石に無理だからよ。喧嘩終わってからしばらくまともに飯食えねぇかもしれないから、やる前に1度一緒に飯食おうと思って」
「わかった。3人分用意しておく」
「あ、洋次も誘うから4人分で」
「誘うのは止めておきなよ」
「何でだよ」
「国吉、料理好きな彼女出来たから」
「マジか!どこの誰?!」
「国吉本人に聞いてよ」
「あいつに聞いたって話す訳ねぇだろ」
「国吉に内緒で私があんた話したのばれたら、後で私が怒られる」
「あいつ、そういう所、秘密主義だもんなぁ」
「逆にあんたはオープン過ぎるよねぇ」
「仕方ねぇ、洋次に駄目元で聞くか。しかし、いつからだ?」
「昨日」
「お前、本当に耳早いよな。俺の細々した話も掴んでそう」
「・・・さぁね」
「どこまで掴まれてるか怖ぇぇ」
「ほら国吉待ってるからさっさと行って来なよ」
「へいへい」
ひらひらーと手を振って宗春はの家を出た。車が出て行く音がしばらくして聞こえる。
「ほぼ全部掴んでるんだけどねぇ。あいつの場合は遊びか割り切った関係だからなぁ。早く本命が出来て、落ち着いてくれると良いけれど」
しみじみとおたま片手にが呟く。その姿は宗春の母親染みていた。
宗春が戻るよりも先に好誠がやって来た。女の1人暮らしの家という事もあり、最初は好誠も少し遠慮していた部分もあったが、流石に毎週のように来ていれば慣れたようで、中に入った好誠はほぼ固定位置となっているダイニングテーブルの一角を陣取った。
「今日は宗春はいないのか?」
「国吉に呼ばれて出て行きましたよ。夕食には間に合うって言ってたので、もうじき帰って来ますよ」
「ここ最近、あいつ本当に忙しいな」
「かつてないくらい大きな喧嘩みたいですからね。本当ここ最近は落ち着きが無かったですけど、決着を着ける話が決まったみたいですから、当日までは少しは落ち着きそうですよ」
食器棚を開け、食器を取り出そうとするを見て、好誠は立ち上がる。その左手首に巻かれた包帯について問うと、ちょっと捻りましたとは苦笑いで答えた。好誠も武装の頭として2年近く君臨して来た。経験則でが何か隠しているのは勘付いていたし、があまりにも宗春のチームの内情に詳しい事も気になっていた。住まいが隣同士で幼馴染だから?バイト先が毒蛾の溜まり場だから?確かには毒蛾の頭である宗春にも、その周りを固める幼馴染達とも仲が良い。だがそれだけでは説明のつかない何かがあると好誠は思っていた。しかし、既に好誠は引退した身。地元でも無いチームの内部事情に首を突っ込む程、野暮でもなかった。胸の中に僅かにモヤモヤした物を抱え、の代わりに食器棚に手を伸ばす。何が必要なのかに聞きながらの作業は、携帯の着信音で中断された。がエプロンの下に隠れたパーカーのポケットに手を伸ばす。携帯に映った発信者名は横見防止のフィルターのせいで横に立つ好誠にも見えなかったが、携帯の画面を見たは幼馴染の1人の名を呟いた。ちょっとすいません。そう好誠に一言断って電話に出る。
「もしもし、忍?どうかした?」
そこまではいつもと同じ口調だった。それからすぐに好誠の肌がざわりと粟立つ。
「日出男が?」
好誠は横に立つ頭1つ分低い女の顔を盗み見る。淡い微笑を浮かべるいつもの顔が電話の相手の言葉で強張った。名前の出た幼馴染に何かあったのだろうか。
「救急車を呼んだ所。今、そのイチゼンくんの指示通り、救急車を誘導する為に外に居るのね。日出男には?イチゼンくんが付き添ってくれてる、と。わかった。その倉庫からなら、中央病院が1番近いからそこに搬送される筈。うん、宗春と国吉には私から連絡するから、忍は日出男に付いていて。
うん・・・。向こうで合流しましょう」
強張った顔はあっと言う間に能面のような感情の消え去った物に変わっていた。あえてそうしたのだろうと好誠は見抜いた。こういう時、慌てた所でどうにもならないという事を好誠は嫌という程知っている。武装5代目の歴史の中で、何度か仲間が倒され、時に激昂に震えた。そんな時、副頭の柳に冷静になるよう諭されたのだ。の姿が記憶の中の柳の姿と被る。ああ、はかつて己が居た世界に足を踏み入れているのか。直感で好誠はその事に気付いてしまった。胸にあったモヤモヤは消えたが、他人事ながら何故を宗春を筆頭としたあの幼馴染達は止めなかったのか。怒りとも悲しみともわからない苦い感情が好誠の胸の中に広がった。
それから数時間後。安生市の中心街に程近い場所に、佐田中央病院という3階建ての建物がある。そこに数時間前に救急車で畑日出男が搬送された。付き添いには幼馴染の高城忍が付き、一緒に居た武装の小林一善と円城数正がタクシーでその後を追い駆けた。忍から情報を得たが宗春に連絡。一緒に居た国吉と宗春はそのままその足で病院に行き、は宗春達が居た地点から1度アパートに寄るのは時間のロスだった為、タクシーを呼ぼうとした所、一緒に居た武田好誠のバイクで病院までやって来た。宗春達と合流した。搬送された日出男はそのまま緊急手術に入ったが、出血は多かったが、急所を外れていた為、命に別状は無く。その報告を聞いた時、は安堵のあまり膝から床に崩れ落ちた。傍に居た好誠に支えられたの目には滲むものが浮かぶ。しかし、めでたしめでたしで話は終わらない。達と一緒に廊下に居た一善は長椅子に座り、俯いた状態で畑の安否を祈っていたのだが、その報告に腫れた顔を綻ばせるものの、そこに警官2人を連れたスーツ姿の男が現れた。一善に小声で何か伝えると、一善はそのまま大人しく男の後について行った。一善の後ろに警官2人が付く。その後を追おうとした数正だったが、一善から新市と合流し、上の指示を待てと言われた。スーツ姿の男が刑事で、纏う雰囲気に思う所のあった数正だったが、それを引き止めたのは忍だった。もがく数正に対し、一善は制止させてくれた忍に礼を言って、男達と共に消えた。何故止めたと数正は憤った。忍はその視線を宗春に送り、宗春はに視線を送った。は頷き、国吉に視線を送る。視線の意図に気付き、国吉も頷く。
「私と宗春が彼に説明するわ。忍はこのまま日出男についていて。国吉は日出男の件を他のメンバーに回して。中途半端に話が伝わると、暴走する可能性もあるし、他のメンバーの士気にも関わる」
「ああ、隠さずにありのまま伝える。卑怯な真似をされたんじゃねぇ。正々堂々のタイマン中に起きた事故だってな」
「頼むよ。・・・さて、じゃあ、場所を変えようか」
ここで話すにはちょっと不味い。そう言っては好誠の腕を引いて病院の出口を目指した。円城を促すと宗春も続く。ここで彼らから話を聞かないと不味いと理解した数正は、慌てて彼らの後を追った。そして数正は電話する。武装戦線の副頭、藤代拓海に。タイマン中に起きた事故。運ばれた一善の喧嘩の相手。相手に命に別状の無かったものの、刑事と思われる男に連行された一善。
「わかった。今から俺もそっちに行く」
電話の向こうから聞こえたその声が心強くてしょうがない数正だった。