安生に入り、将五と拓海が新市と数正と合流した頃、佐田中央病院の3階の個室に1人の見舞い客が現れた。数回のノックの後、付き添いをしていたであろう中年女性が現れ、見舞い客の顔を見た後、気を利かせてそのまま廊下へと出て行った。


「よー、
「思ったより酷くなくて良かったよ」


血が足りていないのか、畑の顔色はまだ良くない。それでも最悪の事態を想定して病院に駆け込んだである。想像よりもずっと元気な姿に、がほっと息を吐く。怪我をしたのは腹なので、声を出すという行為1つしんどいようで、小さく擦れ気味な声が今の畑の限界だった。


畑の枕元の傍にちょこんと置かれた丸椅子には腰掛けた。ベットの上半分を45度起こしている畑とその距離は近い。幼馴染以外の人間が見れば間違いなく誤解する距離だ。最も2人からすれば今更なのだが。


「さっきあの刑事が来たぜ。被害届出せってな」
「出したの?」
「出す訳がねぇ。お袋にも事情を喋って出すなって言ってある」
「そう。あの刑事もさぞ焦っているでしょうね」


被害届を出せるのは原則として被害者本人だけだ。被害者が未成年の場合、一定の親族でも出せるが、畑の場合、父親は仕事で遠方にいて、母親は説得済みである。これで今回の畑に対しての傷害罪は適応される事はまずないだろう。


「なぁ、。これでキョーダイは出て来れるか?」
「カグラの件を見る限り、すんなり出て来るのは難しいと思う」


カグラの言葉に畑は眉を顰める。


件の刑事――頭のてっぺんが寂しいので、一部で鷹と呼ばれているのだが、その鷹の悪名を最も知らしめた事件が『神楽坂通り2丁目事件』通称、カグラだった。思い出すだけで吐き気がするこの事件は、結末だけで言えば、加害者だとされた男が投身自殺をした事で被疑者死亡のまま書類送検された。最も後の捜査では自殺した男はシロで、別件で逮捕された別の男が拘留中にカグラの事件の犯人だと供述した。当初犯人とされた男の汚名は雪がれたが、全てが遅すぎた。亡くなった男が取調べ中、自殺に至る程のナニカが鷹から受けたのは間違いない。安生の裏に関わる人間達が鷹を忌み嫌い、警戒するようになったのは、この事件後からだった。


、俺はキョーダイがカグラの時のような末路を迎えるのを見たくねぇ!何とかならねぇか!」


腹の底から振り絞ったような低い低音。腹を押さえながらも必死でそう告げた畑の頭を、は数度軽く叩いた。子供をあやすような仕草だが、畑も抵抗せずになすがままになっていた。先程、無理をしたせいか、畑の顔色が更に悪くなっている。


「日出男のキョーダイなら、私にとっても義理のキョーダイだよ。助けない訳ないでしょ」


ニッと笑ってそう言えば、顔色の悪い畑の口元が緩んだ。立ち上がったに、畑はすまねぇと答える。


「良いよ。退院祝いって事にしておくから。この私が動くんだから、大船に乗ったつもりでいなさい。キョーダイと酒を飲み交わす約束したんでしょう?」


頷いた畑にはさっさと治しなさいと発破を掛けると、ひらひらと手を振って病室を出て行った。畑の母親と軽く言葉を交わした後、は階段を降りると、外来用の出入り口では無く脇にある夜間出入口から外に出た。診察時間中なので、窓口にいた警備員もをちらりと見る程度だ。


外に出たはそのまま裏の駐輪場に向かうと、そこには情報担当の幼馴染が3人揃っていた。


「どうだった?日出男は?」
「思ったより酷くは無さそうだが・・・出血が多かったせいか、顔色が悪いね。腹に傷を負っているから小声じゃないと喋るのもしんどそうだよ」
「そうか。・・・それで日出男はお前に頼んだのか?」
「うん」


何故、敦士、鹿島、ひかりの3人が見舞いに行かずに駐輪場で待っていたのか。それは彼らなりの気遣いだった。


を含めた4人にとって、小林一善は幼馴染の命の恩人ではあったが、それと同時に敵対組織の人間だという認識を捨てては居なかった。彼らは毒蛾の為にしか動かない。厳密に言えば、幼馴染達の為にしか動かない。一善に感謝はしているが、鷹を相手取るにはデメリットが多過ぎて、4人の中でも意見が分かれている状態だった。


「さて、これからどうする?」
「中身は腐ってるが、腐っても相手は刑事だぜ」
「ただ単に意地を張るには分が悪いよ」


一善を助けるか。賛成はと敦士。反対は鹿島とひかり。見事に真っ二つに意見が分かれてしまったので、畑から頼まれたら動くというの提案に他の3人も乗った。ただ全員で押し掛ければ、畑も男の面子もあるので言い辛いだろう。そう考えて、4人の中で畑が1番弱みを見せる相手、が代表で畑の見舞いに行ったのだ。


畑の頼みならば、反対意見を出した2人も動くつもりだった。ただ、相手は国家権力を武器に出来る男。どうしてもいつも以上に慎重にならざる得ない相手だった。


「ちょっと時間が足りないのがネックだけどね。正直、2日ばかりこれに掛かりっきりになるから、代わりに鹿島とひかりはいつも通り安生を見ていて」
「俺は?」
「多分、武装の人達が何人か乗り込んで来ると思うから、その対処を頼むわ。ただ暴れまわってるなら、宗春か国吉に報告して撃退。例の小林一善くんの関係で様子を窺いに来ただけなら見逃して。ただ、髑髏を背負って動くようなら、外すように宗春、国吉経由で伝えて。毒蛾とのメンバーと揉めるのも面倒だけど、私が動く関係上、武装のメンバーに出て来られても邪魔にしかならない可能性があるからさ」


が腕時計を確認する。規則正しく秒針を刻む針に僅かに米神を引き攣らせた。


「ただの観客として見てるなら構わないけれど、参加者としてならお断り。残り40時間切ったからね。時間が惜しい」
。単独で動き気か?」
「うん。今回ばかりは時間が無いからね。余裕があれば、皆の希望通りに動きたいんだけど。何度考えても1人じゃなきゃ今回は無理」


清々しい程、ばっさりと言い切ったに、鹿島は米神を押さえた。


ちゃーん。無茶しないでよー」
「しないしない」
「こう言う時のお前の言葉は当てにならないからなぁ」
「酷いなぁ」
「・・・やばい方面には足突っ込むなよ。速攻で宗春と昇に連絡するからな」
「・・・わかってるよ」


信用ないなぁと呟くに、3人は当たり前だと言い切った。それだけの前科がにあった。








安生市警察署の近くに将五と拓海は居た。と、言ってもおそらく余程親しい人間で無い限り、ぱっと見に武装の頭と副頭だとはわからないだろう。普段は髪を全て後ろに流し、ワックスでガチガチに固めている将五だが、その髪は全て重力にそって下に流れていて、顔の傷の上半分を隠していた。服装も黒のTシャツにジーパンだ。


一方、拓海はと言えば、武装だとわかる何かが無ければ、武装だとわからない外見をしているという自覚があった。その辺の高校生と変わらない格好で、帽子をやや目深に被った。素顔のまま歩いていれば、ほぼ100%の確率で逆ナンパされる。羨ましいと周りに言われる拓海だったが、良い思い出よりも苦い思い出の方が多かった。


「面会自体はすんなり通ったけれど、芳しく無いね」
「喧嘩があった事自体は一善も認めているからな」
「向こうは喧嘩じゃなくて、暴行って扱いだけどね」
「チッ、気に入らねぇ」


気持ちを落ち着かせるために将五はタバコに火を付けた。紫煙が漂うも、すぐに消える。気分じゃないのか、将五はすぐにタバコを携帯灰皿に押し付けて消した。


「せめて一善が否定してるなら俺達も動けるんだけどね」
「2回目だぞ。前は殺人未遂がついたが、未成年である事と、動機が動機だったから通常よりも短い刑期で出て来れた。2回目は間違いなく長くなるんだよな?」
「ああ。反省の色無しって事で、未成年と考慮されてもそれなりに長くなる筈だ」
「クソッ、せめて戸亜留市ならな」


怒りを込めてブロック塀を叩く。その音に下校途中の子供が慌てて逃げて行き、拓海は将五の腕を掴むと逃げた子供とは反対方向に引っ張った。どうしたと状況を理解していない将五に、さっきの子、警察の方向に行ったよと言えば、将五は慌ててその場から走り去った。盛大に拓海は溜息を吐いた後、その後を追った。


拓海が将五に追い付いた時、将五は1人ではなかった。拓海の位置からでは将五の長身の影になって、殆ど見えないが、どうやら誰かと居るようだ。戸亜留市ならばそう珍しくも無い光景だが、ここは安生市。決戦日や場所を決めに行った拓海ならば、まだJmにいた毒蛾のメンバーと顔を合わせているのでわかるが、将五が会ったのは毒蛾の頭ともう1人。前川宗春ならば将五より上背があるので、決して隠れる事はないだろう。そうなると―。


そう思って覗いた先に、予想通りの姿はあった。拓海の姿を見て、あからさまに眉を顰める。厄介な奴がもう1人増えたと思っているのだろう。実際、その通りなんだけれどと拓海は苦笑する。


「すまねぇ、魔王と連絡を取れねぇか?」
「だから無理なんですって!私、末端の人間なんですよ」
「あんた、あれだけ出来て末端な訳ねぇだろ」


辺り構わず大声で魔王と言う単語を使った将五を睨みつつ、は辺りを確認しながら小声ながら凄みを利かせた声で返していた。そのやり取りで拓海は何があったのかすぐに悟った。の視線が拓海に注がれる。この男を何とかしろと目で訴えられ、拓海は将五を連れて来た事を後悔し始めて来た。真っ直ぐ過ぎて本当にこういう事には向かない。


「将五、ちょっと下がって。俺が交渉するから」
「・・・・・・・」
「将五とこの子じゃ相性が悪過ぎる」


そういうと渋々将五は引き下がった。相性が悪いの件でちょっとだけ悲しそうな顔になったが、実際、真っ直ぐ過ぎて腹芸の出来ない将五と、なるべく正体を周囲に隠したい情報担当のは相性はあまり良くない。将五に似たところのある宗春と相性が良いのは、確固たる信頼関係と付き合いが長いのでお互いがお互いに合わせられるからだった。拓海がの前に立つと、はあからさまに溜息を吐く。その姿に拓海は苦笑いを浮かべるしか出来ない。実際、立場が逆ならば拓海も溜息の1つや2つ吐かなければ、やってられない気分だったに違いないからだ。


「用件のおおよその見当はついてます」


会話の先手はが取った。


「病院で会った武装の方から話は聞いているかと思いますが、こちらでも小林さんに関して動いています」


その言葉に将五が食いついたが、拓海の制止によって何とか言葉を発する前に飲み込んだ。


「しかし、どういう形で動いているのか、お話する事は今は出来ません」


何故。拓海の2度目の制止は振り切られた。将五の今の気持ちを固めた言葉がぽろりと零れる。


「動いているのは、あの人です。それで察して下さい」
「・・・わかった」


将五が言葉を発する前に、拓海が先に答えた。将五に拓海が視線を送ると、将五も気付いたのか頷いていた。


「今すぐじゃなくて良い。どう動いたかもこの際良い。一善がどうなるのか、後で教えて貰えないかな?」


拓海の眼差しを受け、の表情は考える顔付きに変わった。口元を掌で覆い、しばらく黙り込む。それから少しして、は鞄の中を漁った。使い込んだボールペンと真新しい手帳が取り出され、何の記入も無い真っ白なページを開くと、ボールペンを添えて拓海に突き付けた。


「どんなに早くても説明は明日の夜以降になるでしょう。あの人の動く邪魔になります。仲間を助けたいと思う気持ちはわかりますが、私から連絡があるまで、武装の方々は安生に来ないようお願いします。決戦日が決まった以上、居残っている武装の方も念のため、引き上げて下さい。あの刑事の点数稼ぎの犠牲になる可能性がありますから。一善さんには私の幼馴染の高城忍が顔見知りのようなので、そちらから連絡します。・・・それで良ければ連絡先を書いて下さい」


その言葉に拓海は迷わず乗るつもりだった。横から奪われなければ。


さっと拓海が受け取る前に手帳を奪った将五は、几帳面さが滲み出る字で己の連絡先を書いた。


「本当、こういう所、宗春とそっくり」


呆れ顔ながらもどこか嬉しげなの顔に、拓海は共感を覚えた。彼女もきっと苦労してるんだろうなぁ、と。




書き終わった将五はにボールペンを挟んで手帳を返すが、はそのままそれを拓海に渡した。念のためと言ったに頷き、拓海も記入する。書き終わって手帳から視線を上げると、少しだけ面白く無さそうな将五の顔が見えた。



そう言って立ち去るの後ろ姿を将五と並んで拓海は見送る。はおそらく拓海に連絡するだろう。それはの・・・好みだ。異性として云々では無く、先程の会話を見て感じたのだが、は説明を一々切られるのを好まない。将五は切って、拓海は切らない。ただそれだけの差だ。将五はそれに気付くかどうか。おそらくは気付かない可能性が高いだろう。から連絡があった際、今の話を将五に回して欲しいと言われたらどう切り出すべきか。小林一善の問題の前では微々たるレベルの話だが、拓海はそれでも面倒だと思わずには居られなかった。