俺の朝は早い。




目が覚めて、枕元に設置した目覚まし時計に手を伸ばす。水色の時計の針はセットした時間より5分ほど早い程度で、アラームをオフにするとベットから起き上がった。秒針を刻む目覚まし時計と壁時計。普段はカチコチと定期的に鳴る音くらいしか聞こえない早朝のこの時間帯。そこに普段は聞かない別の音が混じっている事に気付き、窓を開けた。


「やっぱりなぁ・・・」


黄緑色のカーテンを開ければ、窓に無数の水の筋。雨だ。


「こりゃ、今日は練習は無理やな」


バケツをひっくり返したようなと表現する程の物では無いが、いつから降り出したのか、雨どいから水が勢い良く流れているのが見える。先週まで練習試合がたて続けにあったので、今日は体休めの自主練の日だ。


頭の中で雨天用の練習メニューを軽く組み立てると、着替えた後、1階の台所に下りる事にした。






母親にこの時間帯にいる事を珍しがられ、父親にも珍しがられ、姉にも妹にも珍しがられ、挙句、飼い猫にすらひょとんとした顔で見られた俺は、休日の朝と言うものを久しぶりに家族と過す事にした。食事を終え、父親は新聞、母親と姉は後片付け、妹は友達と出掛けるらしく部屋に戻る中、俺は普段あまり見る事が出来ないこの時間のテレビを見る事にした。


2時間ほどテレビを見ていると、母親がテレビ前のテーブルにアイスコーヒーを2つ置いた。ありがとう、と軽く礼を言って口を付ける。目の前の画面は報道番組に変わり、気象庁が梅雨入り宣言した事を報じていた。ちらりと窓を見れば、起きた時に比べると雨の勢いは格段に弱い。立ち上がり、窓を開ければ、地面は濡れているものの、ポツポツと雨が降る程度だった。残りのアイスコーヒーを飲んで、キッチンに居た母親にグラスを渡す。


「ちょっと出掛けて来るわ」
「お昼はどうする?」
「軽くその辺走って来るから、家で食べる」


気を付けてなと言って見送る母親に頷くと、俺はウィンドブレーカーを羽織り、ジョギングシューズを履いて、軽く柔軟体操をした後、走り出した。




休日にも関わらず、この雨のお陰で走る道はどこも閑散としていた。楽だけど、何か物寂しいなぁ、なんて考えながら走るルートを特に決めずに走っていると、気が付けば学校の傍まで来ていた。今日は誰か自主練で来ているんだろうか。誰か居れば練習に誘って見るのも良いかも知れない。


そう思って立ち寄った部室だったが、ドアは捻っても開く事はなかった。部室の鍵は部長とマネージャーと顧問の3人が持っている他、職員室にも1本あるので、部員ならば誰でも開けれるけれど、今日は誰も来ていないらしい。学校に来る予定は無かったが、常備する癖がこの半年ですっかり付いてしまったようで、俺のポケットには携帯、財布の他、部室の鍵がしっかり入っている。ポケットを漁って鍵を取り出すと、ドアを開ける。そこには小奇麗には片付いているものの、如何にも男所帯と言う感じの空間が広がっているだけの筈だったが、予想外の存在に俺は思わず声を上げてしまった。


「誰や!」


くたびれて色褪せたソファー。そこに人が1人、ごろりと転がって眠っている。アイマスクをしているので顔はあまりわからないが、独特な髪型の多い部員の誰かと言う訳では無さそうだ。


「あー、その声・・・・・・白石・・・?」
?」
「そーだよー」


睡魔のせいでいつもより幼く間延びした物だったが、その声は間違いなくマネージャーののものだった。しかし、1度返事が返って来たものの、それ以降、何度名前を呼んでも、んーとか、あーと言った適当さを固めたような返事しか返って来ないので、ソファーに近付き、アイマスクを上にずらすと、いつものの顔がそこにあった。


「んー、眩し・・・」
「戻すんかいっ!」


眩しさに目を細めた彼女は、額の上にあったアイマスクをすっとまた目の位置に戻した。


「何でそれを選んだんや・・・」


最近では100円均一の店でも結構可愛い柄のものだってある筈なのに、彼女がしていたのは福笑いの垂れた目が印刷された物だった。


「んー、金色に貰った」
「だからって・・・」


先程見えた顔立ちは端正と言える物だったが、面白グッツに分類されるアイマスクのお陰で今はひょうきんとしか言えない。


「折角の可愛い顔が台無しやで」
「別に良いしー」
「あのなぁ・・・」


再び寝るつもりののアイマスクを今度こそ剥がす。手にしたアイマスクを良く見てみれば、福笑いの裏は赤いチェック柄になっていた。


「目が!目がー!」


明暗反応で目を閉じても痛いらしく、名作アニメの名シーンのように手で目を覆う。その顔に再びアイマスクを付けさせれば、すぐに大人しくなった。


「今度からはこっち使いや」
「そうする」
「と、言うか、部室で寝たらあかんって」


自分、女の子やろ。そうあやすように言えば、の口元がむっと尖がった。


「今日は不可抗力だったんだよ」
「不可抗力?」
「そう。折角の休みだからコート使って練習しようと思ったのに、学校着いたら雨が降り始めて。仕方ないから止むまで部室で待ってたら、どんどん勢いが強くなるし。暇で暇で仕方が無いから、どうせこの雨じゃ誰も来ないだろうと思って寝てたの。ロッカーにこの前貰ったアイマスクあったしね」
「さよか」


この学校の女子テニス部は地区大会の2回戦突破すれば良い方と言う状態に加えて、中学3年生の春からの転校生と言う事もあってか、は当初どこか暇そうな部に入り、テニスクラブに通おうか考えていたらしい。どこでその情報を手に入れたのか、が他の部に入る前にオサムちゃんが強引にマネージャーと言う形で彼女を男子テニス部に入れた。マネージャー業をこなす代わりに男子テニス部と混じって練習に参加出来る権利を手に入れた彼女は、練習後や練習の無い日にこうやってこっそり練習していた。


「また雨音が強くなって来た」


アイマスクをした状態でが窓の方向を向く。見えていない筈だが、その動きはまるで見えているような動きだった。


「白石は傘差してここまで来たの?」
「いや、俺が家を出る時はほんま小降りやったから、ウィンドブレーカー着てジョギングがてら近くまで来たわ」
「それなら早く帰った方が良いと思う。また当分止みそうに無いから」


はそう言うとソファーの上で丸くなった。何だかその姿は雨降りのお陰で大人しい我が家の飼い猫に似ている。


「寝るなら家に帰って寝ようや」
「雨具持って来てないし、まだ眠い・・・」


欠伸をしながらが話す。見た目は美人なのに、気まぐれで興味が無い物にはどこまでも無関心。ああ、まるで本当の猫のようじゃないかとつくづく俺は思った。




を置いたまま帰る訳にも行かず、俺はスティール棚からバインダーを取ると、ソファー傍の長椅子に腰掛けた。


「帰らないの?」
「ああ、やる事、思い出したから」
「そう」


ちらりとに目を遣れば、彼女は気にした素振りを見せずにソファーで転がったままだった。女の子だから危ないなんて言っても聞く耳など持っていないのは重々承知している。しばらくして聞こえて来た規則的に繰り返される寝息に俺は溜息を吐くと、来月の遠征の日程表を作り始めた。



切り取られた日常



(まったく。あんまり無防備だと襲うで)